である、とフンボルトはいつてゐる。自己は綜合的統一である、一における多であり、多における一である。構想力の論理は元來かやうなものなのである。
いつたいカントの自己は何處にあるのであらうか。自己はつねに環境にあるといはねばならぬ。主觀に對して客觀と考へられるものが單に身體的自己に對する外界のみでなく、また單に意識的自己に對する身體のみでなく、意識内容もまた客觀と考へられ得るやうに、環境といふものもどこまでも内に考へてゆくことができるであらう。いづれにしても、自己はつねに環境にある。自己が綜合的統一であるといふこともこれに基づいてゐる。ホルデーンに依ると、有機體は環境に、或ひは、環境は有機體に同格化され、これによつて生命が維持される。かくて環境は有機體の構造において表現され、逆に有機體の構造は環境において表現されてゐる。そして構造と作用とは分離することができぬ。そこに論理の根本形式がある。ラシュリエが統一は作用の統一としてでなく形式の統一として見られねばならぬといふとき、それは作用が構造と不可分のものであることを意味するのでなければならぬ。主體が環境において表現され、逆に環境が主體において表現されるといふことが、カントのいはゆる綜合的統一の意味でなければならぬであらう。ライプニツは知覺は統一において多樣を表現すると考へた。自己はモナドとしてかかるものである、各々のモナドは自己において世界を映す鏡である。論理は物のうちに、世界のうちにある。物のうちにある論理は何等か直觀的でなければならぬ。直觀から分離して論理を考へようとするのは、構造から分離して作用を考へようとすることにほかならない。構造と作用とが分離し得ぬ限り、直觀と論理とは結び附いたものでなければならぬ。
自己は環境においてあり、環境が自己において表現され、逆に自己が環境において表現されるところに、多樣における統一、統一における多樣といふ論理の根本形式が與へられてゐるのであるが、かやうな自己は單なる表象的自己ではなくて行爲的自己である。環境が我々に働き掛け、逆に我々が環境に働き掛ける。環境が我々を限定し、逆に我々が環境を限定する。自己といふものもそこに形成されるのである。我々は環境を形成することによつて自己自身を形成してゆく。そこに一般に技術といふものがある。自己も技術的に形成されたものである。行爲的自己は技術的
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