れるであらう。けれどもこのとき、如何にして我々は我々の觀念と事物との一致を認識するのであるか、といふことは答へられない。ロックに始まるイギリスの經驗論の哲學はこの問を無用にする方向へ進んでいつた。先づバークレイは自體において存在する物體界の實在は間違つた想定に過ぎないとする。外的な事物も、それが存在する限り、觀念以外の何物でもない。存在するとは知覺されることである(esse est percipi.)、といふのは彼の有名な命題である。物體はただ表象の複合であり、その存在は知覺されることと同一であるならば、心の外に實在する物體を考へるのは誤でなければならぬ。しかしバークレイはなほ心的な實體を認めた。彼は自我をもつてそれに一切の表象活動が屬するところの實在であると考へてゐる。ヒュームは一歩を進めて、バークレイが櫻の實についていつたことは、自我についてもいはれ得るとした。我々の内的知覺も自我の實體についてなんら教へるのでなく、ただその諸活動、諸状態、諸屬性を示すのみである。これらのものをすべて取り去るならば、そこには自我について何物も殘存しない。自我もまた單に諸表象の束である。かやうにして存
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