規定する。即ち一方では、人間は眞理としての神に等しいから彼にとつて認識は可能である。けれども他方では、創造者としての神が無限なものであるのに反して被造物たる人間は有限なものであるから、人間の認識は制約的であり、そしてただ一定の條件のもとにおいてのみ彼にとつて認識は可能である。この條件はプラトンにおいての如く道徳的な條件である。もろもろの慾念から離脱することによつて初めて眞の認識は可能になる。そこには、ひとつの情操的な活動がなければならず、このものは、プラトンがすでに愛(〔ero_s〕)といつたやうに、特に愛である。ひとはスピノザの有名な言葉、神の知的愛(amor Dei intellectualis)を想ひ起すであらう。ところで歴史の發展の過程において概括的にいふと次のことが生じたと見ることができる。プラトンにおいて認識の對象であるところのイデアは超越的なものであつた。しかるに既にストア哲學において、大宇宙(Makrokosmos)と小宇宙(Mikrokosmos)との、言ひ換へると、世界全體と人間との類比(Analogie)が説かれ、それと共に魂の概念が深められるに及んで、イデアは魂に内在的なものとされるに到つた。キリスト教的哲學においてはイデアは第一に神の内容として表象される。ルネサンス時代の新プラトン主義者たちは、ストアの模範に倣つて、この根源的な認識即ちイデアは精神に本性上屬するものであつて、誕生と共に神からそれに賦與されてゐるものであると考へた。デカルト及びその學派においてこの思想はいはゆる生具觀念(ideae innatae)の思想として發展させられたのである。デカルトは觀念に三つの種類を區別した。一、生具觀念、二、外來觀念(ideae adventitiae)、三、虚構觀念(ideae factae)。第一のものは我々の意識そのものの本質から發し、そのうちに座をもつてそれと離れ得ぬものである。第二のものは、私がいま音を聞き、太陽を見、火の熱を感ずるとき、外部から私の心のうちに生ずる觀念である。第三のものは我々の氣隨に從つて作られる觀念である。ギリシア神話における海のニンフたるセイレーネスの如きはこれである。デカルトは眞理(veritas)の觀念そのものを、物(res)及び意識(cogitatio)の觀念と共に、生具觀念のなかに數へてゐる。そしてデカルト
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