主義(Utilitarismus)が效果の倫理(Ethik des Erfolgs)であるのに對して、效果の論理(Logik des Erfolgs)であるといひ得るであらう。プラグマティズムにとつては認識は要するに我々の行爲のための道具にほかならないから、それはまた道具主義(Instrumentalismus)として特色づけられる。
プラグマティズムは特に近代的な理論であり、その形跡は現代の種々の哲學において認められる。例へばフランスのベルグソンの哲學がまたこのやうなプラグマティズムの見方をそのうちに含んでゐる。ベルグソンはおよそ事物を考察するに二つの見方があると述べてゐる。第一の方法は物を外から、一定の觀點をとつて見る。この場合觀點の異るに應じてその見解も違つてこなければならず、しかるに觀點は無數に可能であるから、このときまた物について無數の見解が可能であらう。或る觀點から見るといふことは、物を他との關係において見ることであり、從つてその方法は分析の方法である。分析といふのはひとつの物を他の物によつて言ひ表はすことであつて、ベルグソンの比喩によると、ひとつの飜譯である。それは符號を用ゐて物を言ひ表はすのである。第二の方法は物を内から、直觀的に見る。このとき外面的な觀點は悉く退けられて、なんらの符號も用ゐられることなく、我々は直接に物と合一する。第一の方法は、どのやうに精密になるにしても、即ち、如何に多くの觀點を次から次へととり、また如何に多くの符號を使ふにしても、要するに物そのものの外廓を廻つてゐるばかりであつて、物の絶對的状態を把握することができぬ。ひとり第二の、直觀の方法によつてのみ我々は物そのものの眞相に味到し得る。二つの方法の相違はちやうど或る町を種々の方面から寫した寫眞とその町の實見との相違である。寫眞をどれ程多く集めても町そのものの眞の知識は得られないであらう。第一の方法は科學の用ゐる概念的方法であり、第二のものは絶對の學問たる哲學の方法である。ところでベルグソンは科學的もしくは概念的知識についてプラグマティズム的見解を抱いてゐる。我々の知識は主として行爲にとつて有用なもの、利用し得べきものの製作を目的とすると看做されてゐる。知性は道具、殊に道具を作る道具を製造する能力である。概念的知識は、ベルグソンに從へば、純粹に知るために知るのではない。我々の
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