驕Bライプニツは彼のモナドロジーの思想をもつてロックとデカルトとの間に立つて獨特の位置を占めてゐる。彼が世界の實體と考へたモナドは表象する力であつた。それだからモナドはそのあらゆる瞬間において表象(perceptions)をもつてゐなければならぬ筈である。しかるに一切のモナドは、從つて物質を構成するところのモナドも、心的なものであるとすれば、これらの表象がすべて明晰にして判明であるといふことは不可能である。そこでライプニツは微小表象(petites perceptions)の説を持ち出した。微小表象といふのは意識されぬ表象である。あらゆるモナドは心的なものとしてつねに表象をもつてゐる、けれどもつねに意識された、つねに明晰判明な表象をもつてゐるわけではない。しかしその生命は、無意識的から意識的への、闇冥にして混雜せる表象から明晰にして判明なる表象への發展にある。かやうにしてライプニツは精神が單に諸表象をもつてゐる状態と精神がそれらのものを意識してゐる状態とを區別した。前者を表象(perception)といひ、後者を統覺(apperception)と稱する。從つて統覺は無意識的な、闇冥な諸表象が明晰にして判明な意識に高められ、かくて精神によつて自己自身のものとして認識され、自覺によつて占有される過程である。ところでライプニツによるとモナドは窓をもたない。モナドには窓がない故に、感性知覺を物の心に對する作用と解することは許されない。感性表象はむしろ精神が豫定調和(〔harmonie pre'e'tablie〕)によつて、即ち諸實體の間には調和が豫定されてゐて、モナドの各々はただみづから活動しつつもそのあらゆる瞬間においてすべての他のモナドと完全に相互に一致してゐるといふ原理によつて、闇冥にして混雜せる仕方で微小表象として展開するところの活動と考へられねばならぬ。そして感性表象について行はれる變化はただそれの明晰化、自覺への攝取、統覺と見られ得るのみである。
このやうにして感性と悟性との區別は、ライプニツにおいて、明晰性と判明性との種々の程度といふことと合致するであらう。兩者は同一の内容をもつのであつて、ただ一は他が明晰に判明に所有するものを闇冥に混雜に表象するといふだけである。精神のうちへは何物も外部から入つて來ない、それが意識的に表象するところのものは既に前に無意識的に
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