ut lux se ipsam et tenebras manifestat, sic veritas norma sui et falsi est.)。第二に、かくてこの見方は人間の存在についての一定の解釋をそのうちに含んでゐる。人間と眞理であるところの存在との間には存在的に相等の關係がある。そこでギリシア人は眞に存在するものと人間の本質的な活動とを共にロゴスといふ語をもつて表はした。キリスト教的哲學の根本前提も、被造的存在(ens creatum)としての人間が神の像と相等に從つて(ad imaginem et similitudinem)造られてゐるといふことであつた。もとより人間と神とは同一ではない。プラトンにおいても人間は全智のものと無智のものとの間の中間者(metaxu)と看做された。デカルトもスコラ哲學に從つて人間を神と無との間の、即ち最高存在と非存在との間の中間者(medium inter Deum et nihil, sive inter summum ens et non ens)と考へてゐる。かやうな存在即ちそのうちに非存在を含む存在である故に、誤謬も人間に屬するのである。
さてデカルトにおいてのやうに人間の意識、殊に理性に具はる觀念に認識の源泉を求める思想は、普通に合理論(Rationalismus)と呼ばれてゐる。合理論に對して經驗論(Empirismus)といふものがある。經驗論もその起原はもとより古いが、特に近代の經驗的自然科學の影響のもとに榮えるに到つた。經驗論の根本思想は、誤つてアリストテレスのものとせられてスコラ哲學において定式化され、そして近代の經驗論者によつて繰り返されたひとつの命題、先に感性のうちになかつたところの何物も知性のうちにない(Nihil est in intellectu quod non prius fuerit in sensu.)といふ命題をもつて表はされる。かやうにして經驗論は生具觀念といふものを認めない。反對に、一切の認識を經驗から説明しようとする。我々はその古典的な例をロックの哲學において見ることができるであらう。生具觀念に反對するロックの論證は次のやうであつた。論理の根本原理である同一律や矛盾律の如きをひとは生具觀念に數へてゐる。しかるにこれらの原理は子供たちや學問的教養をもたぬ人々には知られてゐ
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