もし一度で理解することができなければ、暫《しば》らく間をおいて再び読むようにするが好い。努力して読書する習慣を作ることが大切である。尤も、むつかしい本、大きな本がつねに善い本であるという風に誤解してはならぬ。それはペダンチックな人の陥る誤解である。善い本は本質的に云ってすべて最も理解し易い本であるというのみでなく、初めから困難なしに読める本にも善い本は多いのである。そして読書においてぶっつかる困難を克服するためには系統的に読むことが大切である。読書も無秩序であっては益がなく順序を追うて読むようにしなければならぬ。先輩の意見を聞くことが有益であるのは何よりもこの点についてである。
 一般に何が善い本かといえば、もちろん古典といわれるような書物である。古典は歴史の試煉を経て生き残ってきたものであり、すでに価値の定まった本である。古典は決して旧《ふる》くなることがなく、つねに新しく、つねに若々しいところを有している。古典を読むことによってひとは書物の良否に対する鑑識眼を養うことができるのである。古典を愛しないような真の読書家はなく、古典についての教養を有しないような真の教養人はない。古典はつねに安心して読むことができ、幾度繰り返し読んでもつねに新たな利益を得ることのできるものである。かように価値の定まった本を読むように心掛けねばならぬところから、人々は屡々《しばしば》、古典というほどでなくても既にいくらかの年数を経てなお読まれているような本を読むことにして、新刊書をすぐ手に取ることはやめねばならぬという風に忠告している。これは確かに有益な忠告である。ただ新刊書ばかり漁《あさ》るのは好くないことに相違ない。しかしながら読書における尚古《しょうこ》主義にもまた限界がある。アカデミズムに対してジャーナリズムには独自の意義があるように新刊書を読むということにもそれ自身の意義があるのである。時代の感覚に触れるために、また今日の問題が何処《どこ》にあるかを知るために、ひとは新刊書に接しなければならぬ。新しい感覚をもち新しい問題をもって対するのでなければ古典も生きてこないであろう。すべて過去が活かされ、伝統が甦《よみがえ》ってくるのは現在からである。古典を顧みないというのは固より悪いことであるが、新刊書を恐れるというのも正しくないことである。古典は安心して読むことができる本であるに対して、新刊書を読むことは一種の冒険である。しかし読書においても冒険するのでなければ得ることがないであろう。古典を偏愛して新刊書を嫌悪する者において読書は単に趣味的になる傾向があり、一種のディレッタンティズムに陥り易い。しかしまた新刊書ばかり漁って古典を顧みない者も他の種類のディレッタンティズムに陥る危険がある。読書にも年齢があり、老人は古典的なものを好み、青年は新しいものを求めるというのが普通である。青年が新刊書を喜ぶということはその知識欲の旺盛《おうせい》を示すものであって排斥すべきことではないが、しかしそこにはまた単なる好奇心の虜《とりこ》になる危険もあるのである。古典のために新刊書を軽蔑《けいべつ》することなく、新刊書のために古典を忘却することのないようにするのが肝要である。
 古典を読むことが大切である如く、ひとはまたつねに原典を読むように心掛けねばならぬ。解説書とか参考書とかを読むことも固より必要ではあるが、本質的には原典を中心としてこれに頼らねばならぬ。原典はつねに最も信頼し得る書物である。例えばプラトンとかカントとかについて千の文献を読むにしても、原典を読むこと、これを繰り返して読むことをしないならば、深く根本的に学ぶことができぬ。第三者の書いた解説書よりも原典は本質的な意味においては一層理解し易いものである。多数の参考書を読むよりも一冊の原典を繰り返して読むことがそのものを掴むのに結局近道である。そのうえ原典は屡々解説書よりも短いという利益を有している。原典を読むことは読書を単純化するに必要な方法である。それは何よりも読書の経済化、簡易化を意味している。前に述べた規則的に読むという必要は原典の場合において特に大きいであろう。本はひとに読んで貰うのでなくて自分自身で読まねばならぬとすれば、この自分自身で読むという必要は原典の場合においては絶対的である。然るに世の中には文学上の作品についてさえ、それを自分で読まないで、他人の書いた解説や批評ばかりを読んでいる人が少くないのである。ひとはつねに源泉に汲《く》まねばならぬ。源泉はつねに新しく、豊富である。原典を読むことによって最も多く自分自身の考えを得ることもできるのである。
 原典を読むことが必要であるように、できるだけ原書を読むようにすることが好い。どのような飜訳よりも原書がすぐれていることは確かである。原書の有する微妙な味、繊細な感覚は飜訳によって伝えられることが不可能である。そのうえ飜訳はすでに解釈であるということを知らねばならぬ。ひとは原語で読む困難を避けてはならない。飜訳で読むのが原書で読むのよりも速いということはあるにしても、ゆっくり読むことはそれだけ自分で考えながら読む余裕を与えることにもなるのであり、そしてこれは大切なことである。原書を読むには語学の力がなければならないが、その語学というものも決して手段に過ぎないようなものではなく、却って語学そのものが一つの重要な教養である。一つの国語はその民族の精神の現われであり、その思想の蓄積であるということができる。勿論あらゆるものを原語で読むということは不可能であり、またあらゆる場合に原語で読まねばならぬというわけではない。原語で読むことができないという理由でそれを読まないというのは悪い口実である。また飜訳で間に合わせて十分な書物も多い。しかし重要な本はできるだけ原書で読むようにしなければならぬ。飜訳の方が簡単であるからというので原語で読むことを避けようとするのは読書における便宜主義であって、便宜主義は読書においても有害である。
 善い本を読まねばならぬことは明かであるにしても、何が善い本であるかを見分けることは容易でない。古典といわれるものは善い本であるに相違ないが、その古典も多数であって選択が必要であり、殊に新刊書の場合においては選択は愈々《いよいよ》困難である。自分ですべての本に当ってみることは不可能であるとすれば、読書の指針として他人の挙げた目録とか新刊紹介とかに頼らねばならず、すでに定評のあるものを読むようにしなければならぬ。しかしながら定評とか他人の意見とかにばかり頼るということは危険である。読書においてもひとは自主的でなければならず、発見的であることが大切である。各人は自分に適した読書法を見出さねばならぬように自分に適した本を見出すことに努めなければならぬ。単に自分に媚《こ》びるというのでなくて、自分に役立ち、自分を高めてくれるような本を読むようにしなければならぬ。各々の人間には個性があるのであるから、一人の人間に適する本がすべて他の人間にも適するというわけではない。読書においても個性は尊重されねばならぬ。一般に善い本といわれるものの中でも自分に適したものとそうでないものとが自分の個性によって決ってくる。読書においてひとは何よりも特に古典の中から自分に適したものを発見するように努力しなければならぬ。それによって自分の思想というものも作られてくるのであり、愛読書といわれるものも定まってくるのである。愛読書を有しない人は思想的に信用のおけない人であるとさえ云うことができるであろう。自分に適した善い本が決ってくれば読書もおのずから系統立ってくるのであって、即ちそれと同じ系統に属する書物を、或いは過去に遡《さかのぼ》り或いは現代に降《くだ》って、読むようにすれば好い。固より他の系統のものを読まなくても好いというわけではなく、却って偏狭にならないために博く読むことはつねに必要なことである。けれども無系統な博読は濫読に過ぎない。

        四

 善いものを読むということと共に正しく読むということが大切である。正しく読まなければ善いものの価値も分らないであろう。正しく読むということは何よりも自分自身で読むということである。マルクス・アウレリウスは彼の師について感謝をもって書いている。「ルスティクスは私に、私の読むものを精密に読むこと、皮相な知識で満足しないこと、また軽薄な批判者が云うことに直ちに同意しないことを教えた」。正しく読むことは自分の見識に従って読むことである。
 正しく読もうというには先ずその本を自分で所有するようにしなければならぬ。借りた本や図書館の本からひとは何等根本的なものを学ぶことができぬ。高価な大部の全集とか辞典のようなものは図書館によるのほかないにしても、図書館は普通はただ一寸《ちょっと》見たいもの、その時の調べ物にだけ必要なもの、多数の専門文献のために利用されるのであって、一般的教養に欠くことのできぬもの、専門書にしても基礎的なものはなるべく自分で所有するようにするが好い。しかしただ手当り次第に本を買うことは避けねばならず、本を買うにも研究が必要であり、自分の個性に基いた選択が必要である。その人の文庫を見れば、その人がどのような人であるかが分る。ただ沢山持っているというだけでは何にもならぬ。自分に役立つ本を揃《そろ》えることが必要である。ただ善い本を揃えるというのでも足りない、すべての善い本が自分に適した本であるのではない。各人は自分に適した読書法を見出さねばならぬように、自分自身の個性のある文庫を備えるようにしなければならぬ。何を読むべきかについて、ひとは本に対する或る感覚を養うことが大切である。古本屋は自分の立場からであるにしても自分の決して読まない本に対して特殊な価値の感覚を有している。一つの本を見たとき読書家にも何かそれに類似の感覚がなければならぬ、さもなければ彼は読書において真に発見的であることができぬ。しかも本に対するこの感覚は本に親しむことによって得られるのである。
 正しく読むためには緩やかに読まねばならぬ。決して急いではならない。その本から学ぶためにも、その本を批評するためにも、その本を楽しむためにも、緩やかに読むことが大切である。然るに緩やかに読むということは今日の人には次第に稀《まれ》な習慣である。生活が忙しくなり、書物の出版が多くなった今日においては、新聞や雑誌、映画やラジオなどの影響が深くなった今日においては、その習慣を得ることは困難になっている。自分で写本して読んだ昔の人には緩やかに読むという善い習慣があった。しかし今日においてもこの習慣を養うことは必要であり、特に学生の時代に努力されねばならぬ。勿論すべての本を緩やかに読まねばならぬというのではない。或る本はむしろ走り読みするのが好く、また或る本はその序文だけ読めば済み、更に或る本はその存在を知っているだけで十分である。そのような本が全く不必要な本であるというのでもない。すべての書物を同じ調子で読もうとすることは間違っている。しかし様々な本をただ走り読みしたり、拾い読みしたりするのでは根本的な知識も教養も得ることができぬ。自分の身につけようとする書物は緩やかに、どこまでも緩やかに、そして初めから終りまで読まなければならぬ。途中で気が変ることは好くない。最後まで読むことによって最初に書いてあったことの意味も真に理解することができるのである。他の仕事においてと同様、一冊の本にかじりついて読み通すということは読書の能率をあげる所以《ゆえん》である。
 緩やかに読むということはその真の意味においては繰り返して読むということである。ぜひ読まねばならぬ本は繰り返して読まなければならぬ。繰り返して読むということは老人の楽しみであると云われるであろう。老人は新刊書を好まないで、昔読んだ本を繰り返して読むことを好むのが普通である。しかし繰り返して読むことは青年にとってもまた楽しみであり、有益でなければならない。繰り返して読むことは先ずよく理
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