というのは好くない。もとより自分自身だけで何でも考えることができるものであるならば、読書の必要も存在しないであろう。読書は思索のためのものでなければならず、むしろ読書そのものに思索が結び附かなければならない。悉《ことごと》く書を信ずれば書なきに如《し》かずと古人も云った。批評的に読むということは自分で思索しながら読むということであり、自分で思索しながら読むということは単に批判的に読むということにのみ止まらないで、発見的に読むということでなければならぬ。しかも発見的に読むためには既に云ったように自分自身の読書法を身につけることが必要である。そしてこの読書法そのものも自分が要求をもって読書することによっておのずから発見されるものである。



底本:「読書と人生」新潮文庫、新潮社
   1974(昭和49)年10月30日発行
   1986(昭和61)年9月30日20刷
初出:「学生と読書」
   1938(昭和13)年12月
入力:Juki
校正:小林繁雄
2010年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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