ねに安心して読むことができ、幾度繰り返し読んでもつねに新たな利益を得ることのできるものである。かように価値の定まった本を読むように心掛けねばならぬところから、人々は屡々《しばしば》、古典というほどでなくても既にいくらかの年数を経てなお読まれているような本を読むことにして、新刊書をすぐ手に取ることはやめねばならぬという風に忠告している。これは確かに有益な忠告である。ただ新刊書ばかり漁《あさ》るのは好くないことに相違ない。しかしながら読書における尚古《しょうこ》主義にもまた限界がある。アカデミズムに対してジャーナリズムには独自の意義があるように新刊書を読むということにもそれ自身の意義があるのである。時代の感覚に触れるために、また今日の問題が何処《どこ》にあるかを知るために、ひとは新刊書に接しなければならぬ。新しい感覚をもち新しい問題をもって対するのでなければ古典も生きてこないであろう。すべて過去が活かされ、伝統が甦《よみがえ》ってくるのは現在からである。古典を顧みないというのは固より悪いことであるが、新刊書を恐れるというのも正しくないことである。古典は安心して読むことができる本であるに対し
前へ 次へ
全25ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング