性をおかなかったところに読者が自分自身にとって重要な意味を発見するということは可能である。繰り返して読むことは読書において発見的であるために特に要求されている。
 かように発見的であるということは読書において何よりも大切である。もちろん著者の真意を理解するということはあらゆる場合に必要なことであり、それにはできるだけ客観的に読まなければならず、そしてそれには繰り返して読むということが必要な方法である。自分の考えで勝手に読むのは読まないのと同じである。ひとはそれから何物かを学ぼうという態度で書物に対しなければならぬ。理解は批評の前提として必要である。かようにして客観的に読むということは大切であるが、しかし書物に対しては単に受動的であることは好くない。発見的に読むということが最も重要なことである。発見的に読むには自分自身に何か問題をもって書物に対しなければならぬ。そして読書に際しても自分で絶えず考えながら読むようにしなければならぬ。読書はその場合著者と自分との間の対話になる。この対話のうちに読書の真の楽しみが見出されねばならぬ。自分で考えることをしないで著者に代って考えて貰うために読書するというのは好くない。もとより自分自身だけで何でも考えることができるものであるならば、読書の必要も存在しないであろう。読書は思索のためのものでなければならず、むしろ読書そのものに思索が結び附かなければならない。悉《ことごと》く書を信ずれば書なきに如《し》かずと古人も云った。批評的に読むということは自分で思索しながら読むということであり、自分で思索しながら読むということは単に批判的に読むということにのみ止まらないで、発見的に読むということでなければならぬ。しかも発見的に読むためには既に云ったように自分自身の読書法を身につけることが必要である。そしてこの読書法そのものも自分が要求をもって読書することによっておのずから発見されるものである。



底本:「読書と人生」新潮文庫、新潮社
   1974(昭和49)年10月30日発行
   1986(昭和61)年9月30日20刷
初出:「学生と読書」
   1938(昭和13)年12月
入力:Juki
校正:小林繁雄
2010年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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