とでなく、却って「世界」に関係付けられているということである。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないように、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に超越的内在である。かようにしてまた、哲学は対象的認識でなく場所的自覚であるといっても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。場所的自覚とは現実の中で現実を自覚することである。
 ところで科学の主観もすでに行為的であった。科学も行為の立場を予想するにしても、それを主体的に自覚してゆくということは、科学のことではない。科学は世界をどこまでも客観的に見てゆくのである。その主観が行為的であるのも、客観的知識に近づくためであった。科学の与えるのは世界像であって世界観でなく、しかるに哲学の求めるのは世界観である。世界像は客観的な見方において形作られるものであるに反して、世界観は主体的な見方において形作られるのである。前者は世界の対象的把握であり、後者は世界の場所的自覚である。世界観は科学よりもむしろ常識のものである。常識は行為的知識として、論理的反省を経ていないにしても、或る世界観をもっている。日常の生
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