知との中間であり、無知から知への運動である。不完全性から完全性へのこの運動は愛と呼ばれた。哲学は、それにあたるギリシア語の「フィロソフィア」という言葉が意味するように、知識の愛である。それは知識の所有であるよりも所有への行程であり、従って哲学することを措いて哲學はないのである。
 哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、
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