的なものとの技術的な形における統一は先ず身体の構造において現われる。それは自己の保存とか種の保存とかという主観的な欲求と客観的なもの環境的なものとの統一を示している。本能は環境に対する適応の仕方の一つであり、身体の構造に結び付き、従って本能にしても決して単に盲目的なものでなく、むしろ本能は「自然のイデー」である。
しかしながら本能による適応には限界がある。動物は環境と有機的に融合的に生きるといわれるように、本能的な適応は、それが存在する限り、完全である。本能による適応は直接的である。しかるにそのために、環境に重大な変化が生じた場合、それはこれに対して十分に適応することができぬ。本能は環境を広く、遠く、自由に見ることができない。本能もすでに技術的であるといっても、それは身体の器官に制約され、身体は無限の形をとり得ず、一旦出来上って固定した形は我々の活動に対して桎梏にさえなるのである。また身体の器官は道具と見られ得るにしても、身体は我々の自己であって、この道具は主体から離れた独立なものではない。従って本能による適応は直接的であるが、主体と道具とは一つである故に、主体は道具に束縛され、人間
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