はまさに「知性的徳」として人間の生活の最高の形態であり、この徳に至るためには段階的に「倫理的徳」即ち魂の非理性的な部分に対する理性的部分の支配と秩序付けが前提されるのである。中世のキリスト教的哲学が、最高の認識は神の認識であるとする立場において、知識の倫理を重んじたことはいうまでもない。認識の道徳的条件が考えられ、真の認識に達するためには一定の徳が必要とされ、禁欲等の道徳的行為が勧められた。神の認識そのものが直ちに道徳的意味をもっていたのである。かようにして古代及び中世の哲学者たちは、認識の道徳的制約について絶えず語っている。
その際最もしばしば愛と認識との関係が問題にされた。そして主知主義的なギリシア哲学では愛は根本において認識に依存的な機能であったのに反し、キリスト教では認識に対する愛の優位が説かれた。この差異は、前者においては、愛は真の存在に対する非存在的存在の、自己自身は愛することのないイデアに対する人間の、希求を意味したのに対し、後者においては、愛は根本においてより高いものがより低いものに、神が人間に降りてくること、身を卑しめることを意味したところから理解されるであろう。愛
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