が可能的にあったものと同一であるから。アリストテレスにとって運動は可能性より現実性への過程を意味した。弁証法は単にかくの如き内在的な連続的な発展であることができない。そこには自己に内在的なものが同時に超越的なものであるということ、また超越的なものが同時に自己に内在的なものであるということがなければならぬ。自己から起る行為が自己に超越的な自己の存在の根拠である世界から起るものであり、行為は同時に出来事であるのでなければならぬ。人間の作るものが同時に人間を超えた意味をもっているのでなければならぬ。自己の本質として自己のうちにあると考えられる理性或いはロゴスが単に自己のうちにあるものでなく、却って物のうちに、客観的表現的なもののうちにあるものであり、このものに喚《よ》び起されて行為することが真に自己の内から行為することであるというのでなければならぬ。かようにして内在が超越であり超越が内在であるというところに弁証法はある。行為が同時に出来事であるということが歴史的ということであって、弁証法はかような歴史の論理である。
五 知識の相対性と絶対性
知識は普遍性と必然性即ち普遍妥当
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