られたものであり、感覚も思惟の原理に従わねばならぬと考えた。しかしながらかようにして主観の能動性は徹底されるにしても、主観が万能となることによって存在は却って観念になってしまわねばならぬであろう。フィヒテの立場は人間を無限なものとし、神の立場におくことである。これに反し、カントが感性を受容的なものと考えたのは、人間の有限性を認めたことであるといえるであろう。人間が無限なものであるならば、我々の思惟はカントのいわゆる直観的悟性もしくは知的直観であることができ、認識の形式と共に内容をもみずから生産することができるであろう。フィヒテはかような立場に立った。しかるにカントに依ると、我々の悟性は原型的知性でなくて模像的知性であり、その内容をみずから生産することができぬ。カントが感性を受容的なものと考えたのは、認識に模写的意味を認めたことであるといえるが、一般に模写説は人間の有限性の理解の上に立っている。人間が有限なものであるとすれば、存在と知識との関係は模写的であると考えられるであろう。もとより人間は単に有限なものではない。人間が真理を認識し得るというのは単に有限なものではないからである。真理は
前へ 次へ
全224ページ中105ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング