をもつことができず、ましてその記号が知識の意味をもつことは不可能であろう。物理の法則が数式をもって表わされるにしても、物理学は数学に解消されるのでなく、その数式の物理的意味が問題である。記号は記号としていかに任意のものであり得るにしても、その内実の意味においては客観に制約されているのでなければ知識であり得ない。その客観からの制約を広く知識の模写的意味と称するならば、知識はつねに何等か模写的意味を含まねばならぬ。
科学は現象を説明するのでなく記述するのみであるという説は、知識が記号であるという説に近く立っている。知識が記号であるとすれば、それは現象を説明するのでなく記述するに過ぎないということになるであろう。キルヒホフの言葉に依ると、自然科学の任務は、自然現象をできるだけ完全に、できるだけ簡単に記述することである。かような場合、認識の目的は最も経済的に思惟することにある。科学は最小限の思惟消費をもってできるだけ完全に事実を記述することを目的とする、とマッハはいっている。マッハやアヴェナリウスに依ると、概念、公式、方法、原理等は、できるだけ勢力を節約して経済的に環境に適応することを可能にするものであり、その価値は思惟経済上の価値によって決定される。思惟経済説は、有用なものが真理であり、真理の標準は有用性にあるとする実用主義(プラグマティズム)の一種である。科学が概念構成によって、また法則の発見によって、多様な現象を包括し、要約し、人間の勢力を節約させるという思惟経済上の価値をもっているということは事実である。けれども単に有用性の見地から考える場合、知識は相対的なものになってしまわねばならぬであろう。知識は有用であるから真理であるのでなく、真理であるから有用であるのである。「人間の思惟は客観的真理を正しく模写するとき、経済的である」。「認識は、客観的な、人間から独立な真埋を反映するときにのみ、生物学的に有用であり、人間の行動にとって、生命の保存にとって、種族の保存にとって有用であり得るのである」、と唯物論者も模写説の立場からいっている。
尤《もっと》も、記号説も或る正しいものを含んでいる。知識は単なる模写でなく、何等か記号的な或いは象徴的な意味をもっている。知識は一般に言葉において表現されるが、そのことが知識にとって偶然的な、外面的なことでないとすれば、知識は本質的に
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