おいては真或いは偽と語られないのである。またライプニッツは、真理の本質は主語と述語の連結のうちに横たわり、その結合は主語のうちに述語が含まれることであると論じている。しかるに、真理である言表或いは命題の構造と性質がいかに考えられるにしても、命題の真理は一層根源的な真理即ち存在的真理に根柢をもたねばならぬ。真理はただ判断に属するというのでなく、却って判断が存在と一致する限りにおいて判断に属するのである。我々が汝は色が白いと語ることが真である故に、汝は色が白いのでなく、却って汝は色が白い故に、かく語ることによって我々は真を語るのである、とアリストテレスもいっている。真理とは存在がそのものとして顕わであることである。しかるに存在がそのものとして顕わであるためには、存在は超越的でなければならぬ、言い換えると、私から独立であること、私に対して距離の関係に立っていることが必要である。客観の超越なしには真理は考えられない。
しかるにさきに述べた如く、客観の超越は主体の超越によって可能になるのである。物が客観として超越的であるのは、我々自身が主体として超越的であるためである。我々における主体への超越が同時に我々に対する客体の超越である。物が客観として超越的であるのでなければ、我々は物を客観的に認識することができず、我々が主体として超越的であるのでなければ、物は客観として超越的であることができない。主体は内において自己が自己を超えることによって真の主体となる。超越は人間の作用のうちの一つの作用に過ぎぬという如きものでなく、却ってそれによって他の一切の作用が、従って認識の作用もまた、可能になるところのものである。超越は主体の本質であり、主観性の根本構造である。主体というものが先ずあって、それが他の作用と並んで一つの作用として超越をもなすというのでなく、そもそも主体であるということが超越においてあることである。人間存在の超越性によって、一切の存在するものをそのものとして顕わにすること即ち真理が可能になる。物から遠くあることによって物に真に近づくことができる。認識主観はかように超越的な主体でなければならぬ。知識は客観性をもたねばならぬ故に、主観は単に個人的なものであることができない。そこでカントは認識主観を意識一般と考えた。意識一般というのは超個人的な主観、超個人的な我のことである。それ
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