であろう。しかしながら知識の客観性はむしろ言葉通りに知識が客観或いは存在に関係付けられていることと理解されねばならぬ。存在との関係を含まないような知識はあり得ない。知識の客観性は、カントのいった如く、「客観的実在性」のことでなければならぬ、従ってそれは存在に関係付けられているということでなければならぬ。知識が主観的でなく普遍妥当的であるということも、それが客観に関係付けられることによって可能になるであろう。
 しかるに客観に関係付けられることによって、知識に客観性或いは普遍妥当性が与えられるためには、客観が超越的なもの、言い換えると、主観から独立なものであることが必要である。対象の超越なしには知識の普遍妥当性はない。このように考えてゆくと、真理の基準は対象にあることになり、進んでは、真理と称すべきものは第一次的には我々の観念でなく存在であり、この存在に関係付けられることによって、我々の観念はむしろ第二次的に真理といわれると考えられるであろう。真理は知識に属するよりも先ず存在に属している。知識が真理であるのも、存在の真理に関係付けられることに依ってである。実際、人々は普通に、真理のもとに知識の真理よりも物の真理を理解している。「真理を知らねばならぬ」というとき、真理とはあるがままの存在、物の自己自身においてある存在を指している。真理とは存在の在り方、それがそのものとして顕わであるという在り方を意味するのである。真理を単に知識に属する性質と考えることは問題の正しい把握を妨げ易いであろう。スコラ哲学者は、物の真理或いは存在における真理と、知性の真理或いは知識における真理とを、区別した。真理を存在の真理というように考えることは、超越的真理概念である。知識における真理は仮に内在的に考えられ得るとしても、存在における真理は超越的に考えられるのほかない。一層正確にいうと、存在は客観として超越的であることによってそのものとして顕わであること即ち真理であることが可能である。かように超越的なものに関係付けられることによって知識の真理も可能になる。真理の問題は超越の問題であり、それは先ず客観或いは対象の超越に関わっている。
 真理についての自然的な見方は模写説と呼ばれている。模写説は、観念と存在との一致が真理であると考える。尤《もっと》も人々の自然的な見方は、真理を必ずしも先ず知識につい
前へ 次へ
全112ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング