とでなく、却って「世界」に関係付けられているということである。そして主体と客体とが抽象的に対立するのでないように、超越は同時に内在であり、内在的超越であると共に超越的内在である。かようにしてまた、哲学は対象的認識でなく場所的自覚であるといっても、その主体的な見方は客観的な見方に媒介され、これを内に含むのでなければならぬ。場所的自覚とは現実の中で現実を自覚することである。
 ところで科学の主観もすでに行為的であった。科学も行為の立場を予想するにしても、それを主体的に自覚してゆくということは、科学のことではない。科学は世界をどこまでも客観的に見てゆくのである。その主観が行為的であるのも、客観的知識に近づくためであった。科学の与えるのは世界像であって世界観でなく、しかるに哲学の求めるのは世界観である。世界像は客観的な見方において形作られるものであるに反して、世界観は主体的な見方において形作られるのである。前者は世界の対象的把握であり、後者は世界の場所的自覚である。世界観は科学よりもむしろ常識のものである。常識は行為的知識として、論理的反省を経ていないにしても、或る世界観をもっている。日常の生活において我々は多くの場合、常識的世界観によって生活している。格言や俚諺の如きものは、かような常識的世界観を言い表わしている。世界観は世界の主体的な自覚である故に、そこには情意的な見方の含まれるのがつねである。哲学において知るものは人間の全体的存在である、哲学は「全体的人間」の立場に立っている。自覚はあらゆる作用がそれによって可能になる超越と一つのものとして、意識の作用のうちの一の作用に過ぎぬものでなく、むしろ「作用の作用」として、そこでは悟性も感情も意志も結び付くことができる。世界観は我々の知的要求と共に我々の情意的要求を満足させるものでなければならぬ。常識が哲学に求めるのはかような世界観である。そして常識が哲学に対して知識や理論よりも哲学者とか賢者とかという人間理想を求めるということは、哲学を行為的知識として理解しているからである。哲学は生の立場に立つことにおいて常識と同じである。しかしながら哲学はまた学でなければならぬ、それは飽くまでも論理的でなければならぬ。哲学は学の要求において科学と同じであり、科学の媒介が必要である。科学の客観的な見方は哲学の主体的な見方に対立するが、かよう
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