ける客体から主体への超越である。これによって我々は単なる客体でなく主体である。しかるに人間における主体への超越は同時に人間に対する客体の超越の根拠である。我々の環境にあるすべてのものは我々に対して超越的である。言い換えると、それは我々の全く外にあり、我々はそれに対していわば距離の関係に立っている。我々は自己に対してさえ距離の関係に立ち、かようにして自己をも客観的に捉え得る。我々に対して客体が超越的である故に、我々はそれを客観的に認識し得るのである。物に遠いことが却って物を近く捉え得る所以である。客体の超越は、我々が主体として超越的であることによって可能になる。我々における主体への超越は同時に我々に対する客体の超越であり、超越はかように二重であって一つである。人間の存在は客体を全体として超越している故に、存在するものの一切を全体として把握することも可能になる。我々が主体として超越的でなければ行為はなく、また対象が客体として超越的でなければ行為はないであろう。行為は二重の超越によって、しかもそれが一つであるによって、可能になるのである。
 さて主体は単なる意識を意味しないが、しかし意識において主体は主体的になるのである。主体の主体性即ち行為の自発性と意識の発達とは伴っている。主体が主体的に表現される所は意識である。行為はもとより客観的に表現される、けれどもそれが主体的に表現される所は意識を措いてないのである。自己意識或いは自覚によって、主体は真に主体的になるのである。デカルトが「私は考える、故に私は在る」といった如く、我々は自己の存在を意識し、意識する自己を意識することができる。尤《もっと》も自覚はデカルトの考えた如く単に知的な事実であるのではない。「我々は存在し且つ存在することを知る、そしてこの存在と知とを愛する」とアウグスティヌスがいった如く、我々の自覚存在には感情が伴うのがつねである。人間は「考える蘆」であるというパスカルの言葉は、情意的自覚を現わしている。デカルトの「私は考える、故に私は思惟する物もしくは実体である」ということに対し、メーヌ・ドゥ・ビランは、「私は行動する、私は意欲する、即ち私は私において行動を意識する、故に私は原因であることが知られる、故に私は原因もしくは力として在る、即ち現実的に存在する」ということを原理とした。彼はこれを内的感覚の原始的事実
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