るには知る作用があり、そこに知られたものと知るものとが区別される。認識には作用と対象とがある、対象は客観であり、作用は主観に属している。科学はひたすら客観をそのものとして知ることに努力するのである。尤《もっと》も、科学も知るもの、知る作用即ち主観或いは主体について研究するといわれるであろう。けれども科学が知るものについて研究する場合、知るものは対象として、客観として捉えられるのであって、そこに更にこれを知るもの、知る作用がなければならぬ。見られた自己はもはや見る自己ではない。主体はいかにしても客観化し得ぬものである。それは対象的存在でなく作用的存在であり、ラシュリエの言葉を借りると、判断の述語としての存在でなく繋辞としての存在である。主体をそのものとしてどこまでも主体的に見てゆくというのは科学のことでなく、そこに哲学がある。科学が客観的な見方に立つに反して、哲学は主体的な見方に立っている。主体的に知るというのは、対象的に知ることでなく、自覚的に知ることである。そこで翻って主体とか自覚とかの意味を考えてみなければならぬ。
 主体とは働くものである。知るということにおいて、知られたものに対して知るもの、知る作用が主体のものである。それは意識であり、主体とは意識にほかならぬといわれるであろう。しかしさきに論じたように、知識の主体も行為的である。行為の主体は単なる意識でなく却って存在である。存在といっても、それはもとより客観的なものでなく、客観的にどこまでも捉えることのできぬところがあるから主体といわれるのである。その際、存在が先ずあって、それについて作用が考えられるのではない。かように考えることはすでに客観的な見方に属している。そこではむしろ作用と存在とが一つである、存在があって作用があるというのでなく、作用があって存在があるというのでもない。意識の起原にしても行為の立場から理解され得るのである。主体が環境の抵抗に逢って、これを支配し自由になるに従って、意識は発達する、意識の発達には、環境の刺戟に対する主体の反応の自由が現われ、主体の運動が単に反射的でなく自発的或いは自律的であることが必要な条件である。ベルグソンのいう如く、意識の範囲は生命の自由な活動の範囲と一致している。主体的なものは行為的なものである。主体的立場とは行為の立場にほかならない。そこで我々は行為について一
前へ 次へ
全112ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング