あるに対して科学は開いた社会においてある。科学はその本性上人類的普遍的である。科学は時と処を超えて通用する即ち普遍妥当的といわれる知識を求める。そしてそれは個人の自由な精神の活動に俟つのである。科学は、歴史の示すように、民族のうちにおいて個人が自己の自立性を自覚し、独立な人格が現われたところで生れた。それは批判的精神の出現を意味している。個人の自由はさしあたり主観的な肆意《しい》として現われるであろう。科学はもちろん個人の肆意《しい》に基くのでなく、客観的であることを求めている。客観的とは普遍妥当的ということである。そこに個人の主観的な自由は否定されて、自己のうちにおける普遍的なもの、超個人的なもの、理性と呼ばれるものの自覚がなければならぬ。理性の自覚に基いて人間は真に自由になる。単に個人的な立場はもとより、単に民族的な立場に止まる限り、客観的知識に達することはできぬ。もちろん現実の人間は単に人類的でなく、民族的である。しかしその立場が個人の自覚に即して一旦否定されるのでなければ科学的になることはできぬ。人類的立場が直接的であると考えるのは正しくない、それは否定を経て現われてくるのである。常識がなお特殊的な知識であるに反し、科学は一般的なものについての知識、法則の知識である。
 第三に常識は行為的或いは実践的立場における知識であった。しかるに科学は理論的、従って観想的であることを特徴としている。科学ももと実践的要求から生れたものであるにしても、一旦これを否定して飽くまでも理論的になるところに科学は成立する。そこには生活における有用性を離れて、知識のために知識を求め、真理のために真理を究める純粋な理論的態度がなければならぬ。ただ実用の見地或いは政策的立場に立つ限り、科学の求める客観的知識に達し難い。科学は自由な研究を必要とするのであって、常識において直接に結び付いている行為の立場は、科学においては一旦否定的に分離されねばならぬ。科学は何よりも理論的知識、即ち論理的に組織された一般的な知識である。
 このように科学と常識とは異っている。もとより常識は科学化されねばならないし、また科学は常識化されねばならない。かくておよそ常識が科学的になるところに文化の進歩がある。けれども常識がいかに科学的になるにしても、常識と科学との間には性質上の差異がある。なぜなら両者の差異は単に知
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