る文化が出てくる。非日常的なものの経験或いは日常的なものの非日常的な仕方における経験は、経験の深化と呼び得るものである。第二に常識は閉じた社会と結び付いた知識であった。そこでまた常識は経験の拡大によって、言い換えると、自己が有機的に結び付けられている環境以外の新しい環境の経験によって破られる。自己の経験する世界の拡大するに従って常識は動揺させられる。或る社会において常識として行われることも他の社会においては常識として通用せず、一つの社会の常識と他の社会の常識とが矛盾するのを知るとき、自己のもっている常識に対して疑惑が生ずるようになる。第三に常識は有機的な知識として社会における均衡の状態に相応するものであった。その均衡が破られるとき、常識もまた動揺させられる。社会が有機的時期から危機的時期に入るとき、常識では処理し得ないようなことが次々に起って来る。有機的時期とは社会において均衡の支配的な時期であり、危機的時期とは反対に矛盾の支配的な時期である。後の場合、個人は社会の習慣的な有機的な関係から乖離し、経験の個性化が行われ、それと共に批判的精神が現われてくるのである。しかるにかような危機は、一定の歴史的時期において集中的に大量的に現われるのみでなく、あらゆる場合に存在している。習慣は絶えず破られるであろう。しかし旧い習慣が破られるにしても、新しい習慣が直ちに作られる。人間は習慣なしにやってゆくことができぬ。習慣が必要であるように、常識も欠くことのできぬ重要性をもっている。
 ところで有機的と危機的とは、社会における均衡と矛盾との関係を意味し、社会がもと対立するものの統一であることを示している。常識は閉じた社会のものであると私は述べたが、いかなる社会も単に閉じたものでなく、同時に開いたものである。ベルグソンは、閉じたものと開いたものとはどこまでも性質的に異るものであって、閉じたものをいかに拡げても開いたものにはならぬといっているが、社会は元来このように対立するものの統一である。人間は閉じた社会に属すると同時に開いた社会に属している。我々は民族的であると同時に人類的である。かようにして、常識というものにも二つのものが区別されるであろう。それは一方、すでにいった如く、或る閉じた社会に属する人間に共通な知識を意味する。この場合、一つの社会の常識と他の社会の常識とは違い、それぞれの
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