々の能動性に属している。即ち経験は受動性であると同時に能動性である。我々の行為はただ或る意味においてのみ環境の刺戟によって惹き起されるに過ぎぬ、なぜなら我々の活動そのものが我々の活動を惹き起す環境を作り出すことを助けるのであるから。刺戟によって生ずる反応は同時に刺戟を変化する。主体は単なる環境に対して反応するのでなく、むしろ環境プラス主体に対して反応するのである。客観的状況といわれるものも実は単に客観的でなく、同時に主観的である。行為もまた単に主観的なものでなく、同時に客観的なものであり、環境の函数にほかならぬ。
 我々は経験によって環境に適応してゆく。環境に対する我々の適応は、本能的或いは反射的でない場合、「試みと過ち」の過程を通じて行われる。この試みと過ちの過程が経験というものである。経験するというのは単に受動的な態度でなく、試みては過ち、過っては試みることである。経験という言葉は何か過去のものを意味する如く理解され易く、既に行われたことの登録、先例に対する引き合せが経験の本質であるかの如く信ぜられている。経験論の哲学も経験を「与えられた」もののように考えた。しかし経験は試みることとして未来に関係付けられている。試みるというのは自主的に、予見的に行うことであって、かような経験には知性が、その自発性が予想される。自発的な知性がそこに働くのでなければ、試みるということはない。経験は試みることとして直接的でなく、すでに判断的であり、推論的であるとさえいい得るであろう。もちろん経験は単に思惟的でなく、却ってその本質において実験的である。すべての経験は実験である、ただ経験には科学における実験の如き方法的組織的なところが欠けており、従ってそれは偶然的である。実験が技術的であるように、経験もすでに技術的である。経験において、我々は試みては過つ、過つということはいわば経験の本性に属している。本能はそれ自身に関する限り過つことのないものであるが、経験においては過ちがある。しかもそこに経験の価値があるのであって、過つことによって我々の知識は本能の如く直接的なものでなく反省を経たものになってくる。誤謬の存在によって我々の知識は媒介されたものになるのである。試みと過ちの過程において我々は正しい知識、正しい適応の仕方を発明する。経験は発明的である。それが発明的であるということは、経験が主
前へ 次へ
全112ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング