れているに過ぎぬ。我々は動物的衝動をもっているのでなく、ただ人間的衝動をもっているのであり、このものは外的機能においていかに動物的衝動と類似しているにしても、性格的にはそれとは別のものである。人間的衝動はデモーニッシュであり、また人格化されている。人間が超越的であるのは単に理性においてでなく、却ってその全存在においてである。プロメテウスの神話が象徴している如く、技術というものもしばしばデモーニッシュな衝動に基いている。世界の根柢には無限の闇、無限の衝動がある。もとよりパトス的なものは無限定なものであり、しかるに表現作用は形成作用として限定作用である、そこにパトス的なものの中からイデーが生れるということがなければならぬ。パトスが衝動的であるというのも、それ自身は無限定なものでありながら、すでにそれ自身のうちに限定への、イデーへの、形への無限の希求を含むためでなければならぬ。表現におけるイデーは抽象概念の如きものでなく、パトスの中から生れたものであり、従って抽象的に理性的なものでなく、むしろ感情的・理性的なものである。形はイデー的なものであるが、単に客観的なものでなく、却って主観的・客観的なものである。しかもイデーは働くことによって見られるもの、作ることにおいて見られるものである。それは歴史に対して先在的にあるものでなく、却って歴史的なもの、歴史において現われてくるものである。しかし真に歴史的なものは単に歴史的なものでなく、歴史的なものと超歴史的なものとの統一である。
 人間が表現的なものであるということは、簡単にいうと、人間が世界のものであるということである。その意味はあたかも、薔薇が自然を表現するといわれるのと同様である。自然とは生むものであり、薔薇は自然から生れたものとして自然を表現している。人間も世界から作られたものとして世界を表現している。この世界を自然といい物質というにしても、それは歴史的自然であり、歴史的物質である。表現的なものは歴史的に形成されたものである。人間は歴史的・形成的世界の形成物として表現的である。すべて表現的なものは個別的なものである。しかし単に特殊的なものは表現的でなく、表現的なものは一般的意味をもつものでなければならぬ。人間は世界的意味をもつものとして表現的であるというとき、世界は客観としての世界であることができない。表現的なものは単に客
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