境は私に対してあるというよりも私が環境の中にあるのである。環境は対象でなく、私がそこにおいてある場所である。環境のかような性質はその世界性格と称することができる。尤《もっと》も、環境は一面閉じたものの性質をもっている、私がそこに住む環境は、この町、この国、更にいわゆる世界にまで拡げて考えても、つねに閉じたものである。環境が主体を中心とする円の如く表象されるのもそのためであって、円はその周辺をどれほど拡げても開いたものとはならぬ。しかるに閉じたものは世界とは考えられない、世界の根本性格は開いたものということである。閉じたものと開いたものとの差異は量的でなくて性質的である。閉じたものが一点を中心とする円の如く表象されるとすれば、開いたものは到る処中心を有する円の如く表象されるであろう。環境は単に閉じたものでなく、その世界性格において開いたものの性質をもっている。即ちそれは閉じたものであると同時に開いたものである。環境は、私に対してあるのでなく私がその中にあるものとして、対象或いは客観とは考えられない。主観的なところを有する私の存在をうちに包むものは単に客観的なものであることができぬ。我々がそこにいる社会は単なる客観でなく、それ自身の意味における主体である。社会も身体を有し、風土的自然は社会の身体と考えられる。私に対してあるといわれるのは環境でなく、私と一つの環境においてある他のものである。それは私と同じく個別的なものであり、そして環境は一般的なものである。個物は個物に対し、一つの環境においてある。かような個物はすべて我に対する汝の性格を担っている。環境の意味での自然においてある個々の物も単なる客観でなく、むしろ汝の性格において我に対している。汝は我に対して独立なものである、客観とか客体とかといわれるのも、それが主体から全く独立なものであることを意味している。行為は独立なものと独立なものとの間に成り立つ、しかもかように関係するにはそれらは一つの場所においてあるのでなければならぬ。我々がその中にある一つの個別的社会、例えば民族とか国家とかも、主体として他の主体即ち他の個別的社会に対し、それらは一つの環境、いわゆる世界においてある。かような世界も歴史的なものとしてそれぞれの時代に個別的であるとすれば、多くの世界がそれにおいてある世界即ち絶対的環境、もしくは絶対的場所、もしくは
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