して現実的に理解されねばならぬ。人間が超越的であるというのは、世界の外にあるということではない、それは却って現実の世界が単に客観としての世界とは考えられないということを意味している。カントの考えた世界は客観としての世界に過ぎなかった。そのことは彼の問題としたのが主として自然科学的世界であって、歴史的・社会的実在でなかったということにも関係しているであろう。模写説に対する構成説の特色は、主観の能動性を強調するところにある。主観は対象を構成することによって対象を認識すると主張されるのである。その主観の能動性の強調は、近代科学の根柢には自然に対する支配の意志があるといわれることとも繋っているであろう。そこでは自然は単に見られるものでなく、これに働きかけ、これを変化すべきものであった。
 いずれにしても認識に構成的なところがあるのは確かである。科学の方法である実験がまさにそのことを示している。しかしながら知識は単に主観的なものでなく、客観的なものとして、客観に制約されている。そこに直観の問題があるのであって、カントも知識の内容は直観から与えられると考えた。感覚は主観が物そのものから触発されて生じ、思惟が自発的であるに反して、直観は受容的である。認識の形式は主観に属するが、その内容においては客観に制約されるのである。「認識の形式は内容的客観的真理を認識のために形作るに決して十分でない」、とカントはいっている。かようにして知識が客観に制約される限り、知識には模写的意味がなければならぬ。カントが直観の形式(空間と時間)と思惟の形式即ち範疇とを区別したのもそのためである、と解釈することができる。彼の認識論において感覚の根源として物そのもの、いわゆる物自体が残されているのも偶然ではないであろう。尤《もっと》も、主観の能動性を絶対的に考える主観主義の立場にとっては、主観から独立に物自体の存在を許すことは不徹底であるといわねばならぬであろう。そこでフィヒテは、感覚は自我がその抵抗としてみずから定立するものと考えた。自我は本質的に実践的であり、実践は抵抗に打克ってゆくことであり、抵抗なくして自我は実践的であり得ない故に、自我は自己に対する抵抗として感覚を定立するというのである。また思惟の能動性のうちに論理主義の徹底を求めようとする新カント派のコーヘンは、思惟に与えられたものは課題として与え
前へ 次へ
全112ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング