いためであると云へる。古典的なものにはゆとりがあり、落著いたところがある。しかしそのやうなところが出て來るといふのは實に容易なことではない。それはとにかくとしてもつと餘裕のあるものを書くやうに努力したいといふことは、このことが忘れられがちだから、云つておかれてよいと思ふ。
 本質問題を離れて、哲學をわかり易くするために啓蒙的な論文や書物がもつとできることは望ましいことに相違ない。哲學は學問である限りそのやうな啓蒙的なものが書かれ得る筈である。それは實際にさういふ能力のある人によつて書かれなければならぬ。啓蒙的なものだからといつて、誰にでも書けるわけのものでなく、それは普通に想像される以上に困難な仕事だ。その困難のほんたうにわかる人が、それに打ち克ちつつ啓蒙的なものを書いてくれることが希望される。固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによつて哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかつたやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするといふ口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。啓蒙は哲學そのものの啓蒙であり、哲學的精神の啓蒙でなければならぬ。それだからほんたうの「哲學者」だけが哲學について眞に啓蒙的であることができる。さういふ意味で古典こそ最上の啓蒙書なのである。哲學において重要なのは、物の見方であり、考へ方であり、方法である。結論でなく、過程が、方法が特に大切なものであるところに哲學的啓蒙の特殊な困難がある。然るに方法は、その方法が生きて生産的にはたらいてゐるところにおいて最もよく學ばれ得るものであり、從つてそのためには大哲學者の著作につくのが最もよいのである。そのやうなことを離れても、大哲學者の書いたものには何か啓蒙的精神といつたやうなものが含まれてゐるのではないかと思ふ。科學としての哲學の理念と共に教育としての哲學の理念をたてたところにプラトンの偉大さが忍ばれる。啓蒙的、教育的、指導的精神と云へば、何か嫌なものに感ぜられるかも知れないが、とにかく、ひとに呼びかけるといつたところが偉大な哲學には含まれてゐるやうである。さういふものの缺乏が哲學をむつかしく思はせてゐるのではないか。獨語的な哲學はむつかしい。
 これが質問に對する私の感想的な答であり、それはまた私自身にいひきかせる言葉である。



底本:「三木清全集 第一巻」岩波書店
   1966(昭和41)年10月17日発行
初出:「鐵塔」鐵塔書院
   1932(昭和7)年7月
入力:石井彰文
校正:川山隆
2008年1月23日作成
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