傳統がないから哲學が自然的な教養として一般人の間に行き亙つてゐない。傳統がないから哲學が他の諸文化のうちに浸潤してゐない。そのために哲學がむつかしいと思はれる度が甚しいのである。哲學が藝術、科學等の諸文化の中に根を張るやうになることが哲學のわかり易くなるために必要な條件である。さうなるための努力があまりなされてゐないのは遺憾である。哲學が哲學者仲間だけのあひだのものとなり、お互のあひだだけしか通じない言葉を語つてゐるやうに見えるのは遺憾である。そのやうな傾向が哲學を無意味にむつかしくしてゐるといふことがありはしないか。
 またよく云はれるのは、今の日本の哲學のむつかしいのはドイツ哲學の影響によるといふことである。これは一理あることであらう。フランスやイギリスの哲學はドイツのものに比してわかり易いやうに見える。しかしこれは本質問題とは無關係である。わかつたやうに思はれても、ほんたうにわかつてゐるのでないことは、例へば、さういふフランス流の哲學を自分でやつてみようとしても、なかなかできないといふことでも知られよう。それには性格と才能とが要る。然るにそのやうな性格や才能は、實際はドイツ流の哲學においても必要なのである。ドイツの哲學は概念的で、秩序整然たるものがあり、教科書として便利であり、それをつなぎ合はすれば何か論文らしいものができる。いはゆる哲學論文を作るにはドイツのものが都合がよからう。しかしさういふ風にして論文が作製されることが哲學をむつかしく、いな、わからないものにしてゐるのである。論文作製の便法をすてて、ほんたうに哲學することの困難を知るために、もつとフランスのものが讀まれることが望ましいかも知れぬ。フランス風のもので哲學的と思はれるやうなものを書くことは容易でないのである。さういふところから自然ドイツ流の哲學におもむくといふことがなければ仕合せである。ドイツのものなら何でも大事に讀むといふ傾向があまり甚しくはないか、そして實は亞流のものをあまりに大切に讀むといふことの影響で哲學がむつかしくなつてゐるのではないかと感じられるのである。讀書は哲學にとつても大切だ。しかし何でも構はず手あたり次第に讀んでゐると、善いものと惡いものとの區別ができなくなつてしまふ。その影響が恐れられねばならぬ。
 今の日本の哲學がむつかしいのは、それがあまりにこせこせしてゐて、餘裕がないためであると云へる。古典的なものにはゆとりがあり、落著いたところがある。しかしそのやうなところが出て來るといふのは實に容易なことではない。それはとにかくとしてもつと餘裕のあるものを書くやうに努力したいといふことは、このことが忘れられがちだから、云つておかれてよいと思ふ。
 本質問題を離れて、哲學をわかり易くするために啓蒙的な論文や書物がもつとできることは望ましいことに相違ない。哲學は學問である限りそのやうな啓蒙的なものが書かれ得る筈である。それは實際にさういふ能力のある人によつて書かれなければならぬ。啓蒙的なものだからといつて、誰にでも書けるわけのものでなく、それは普通に想像される以上に困難な仕事だ。その困難のほんたうにわかる人が、それに打ち克ちつつ啓蒙的なものを書いてくれることが希望される。固より、啓蒙的といふことと俗流化といふこととは嚴密に區別されねばならぬ。俗流化されることによつて哲學はほんとにわかるやうになるのでなく、唯わかつたやうな氣がさせられるだけであり、實は何もわかることにならないのである。俗流化は哲學を失ふ、哲學をなくすることは哲學をわかるやうにすることではなからう。哲學をわかり易くするといふ口實のもとに、俗流化によつて、哲學そのものが抹殺されたり、哲學的精神が失はれたりすることがありはしないかを警戒せねばならぬ。啓蒙は哲學そのものの啓蒙であり、哲學的精神の啓蒙でなければならぬ。それだからほんたうの「哲學者」だけが哲學について眞に啓蒙的であることができる。さういふ意味で古典こそ最上の啓蒙書なのである。哲學において重要なのは、物の見方であり、考へ方であり、方法である。結論でなく、過程が、方法が特に大切なものであるところに哲學的啓蒙の特殊な困難がある。然るに方法は、その方法が生きて生産的にはたらいてゐるところにおいて最もよく學ばれ得るものであり、從つてそのためには大哲學者の著作につくのが最もよいのである。そのやうなことを離れても、大哲學者の書いたものには何か啓蒙的精神といつたやうなものが含まれてゐるのではないかと思ふ。科學としての哲學の理念と共に教育としての哲學の理念をたてたところにプラトンの偉大さが忍ばれる。啓蒙的、教育的、指導的精神と云へば、何か嫌なものに感ぜられるかも知れないが、とにかく、ひとに呼びかけるといつたところが偉大な哲學には含まれてゐる
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