の本質』も、重要なものではあるが、やさしいとはいへない。もちろん、場合によつては、難解な書物に直接ぶつつかつてゆくことも、意味のあることである。高等學校を卒業した夏、速水先生の紹介状をもつて京都に西田先生を初めて訪問した時、休みの間にこれを讀んでみよといつて先生が私に貸して下さつた書物は、カントの『純粹理性批判』であつた。その頃はまだこの本の飜譯も出てゐなかつたので、ドイツ語の辭書を引きながら、一生懸命に勉強したが、わからないことが多くて困難したのを覺えてゐる。その後桑木嚴翼先生の『カントと現代の哲學』が出たが、これも入門書として勸めたいものの一つである。

       三

 先づ必要なことは、哲學に關する種々の知識を詰め込むことではなくて、哲學的精神に觸れることである。これは概論書を讀むよりももつと大切なことである。そしてそれにはどうしても第一流の哲學者の書いたものを讀まなければならぬ。
 そのためにあまり難解でなくて誰にも勸めたいものを一二擧げてみると、さしあたりプラトンの對話篇がある。そのいくつかは既に日本譯が出來てをり、英語の讀める人ならジョーエットの飜譯がある。プラトンの對話篇は文學としても最上級のものと認められてゐる。近代のものでは何よりもデカルトの『方法敍説』を擧げたい。これもまた哲學的精神を掴むために繰返し讀まるべきものであり、フランスの文學にも影響を與へた作品である。もし日本人の書いたものを擧げよといはれるなら、私はやはり西田先生の書物を擧げようと思ふ。
 もちろん古典であるなら、どのやうなものでも、そこに哲學的精神に觸れることができる。古典を讀む意味、解説書でなくて原典を讀む意味は、何よりもこの哲學的精神に觸れるところにある。精神とは純粹なもの、正銘のものといふことができるであらう。美術の鑑定家は、正銘のもの、眞正のものを多く見ることによつて眼を養ひ、直ちに作品の眞僞、良否を識別することができるやうになるのであるが、同じやうに書物の良否を判斷する力を得るためには、絶えず古典即ち純粹なものに接してゆかなければならぬ。書物の良否の本來の基準はこのやうに、純粹であるか否か、根源的であるか否か、精神があるか否かといふところに存するのである。もしそれが單に役に立つか否かといふことであるとすれば、書物の良否といふものは相對的であつて、絶對に良いといひ得るものもなく、絶對に惡いといひ得るものもない。或る人にとつては良書であるものも、他の人にとつては惡書であり得る。全く役に立たぬやうに見える書物から、才能のある人なら、役に立つものを見出してくることができるであらう。讀書の樂しみは、このやうに發見的であることによつて高まるのである。

       四

 哲學の書物は難解であると一般にいはれてゐる。この批評には著作家の深く反省しなければならぬ理由もあるのであるが、讀者として考へねばならぬことは、哲學も學問である以上、頭からわかる筈のものでなく、幾年かの修業が必要であるといふことである。そこには傳統的に用ゐられてゐる術語があり、また自分の思想を他と區別して適切に或ひは嚴密に表現するために新しい言葉を作る必要もあるのである。しかし哲學は學問ではあるが、フィヒテがその人の哲學はその人の人格であるといつたやうに、個性的なところがあることに注意しなければならぬ。從つて哲學を學ぶ上にも、自分に合はないものを取ると、理解することが困難であるに反し、自分に合ふものを選ぶと、入り易く、進むのも速いといふことがある。すべての哲學は普遍性を目差してゐるにしても、そこになほ一定の類型的差別が存在するのであるから、自分に合ふものを見出すやうに心掛けるのが好い。その意味ですでに研究は發見的でなければならぬ。流行を顧みるといふことは時代を知り、自分を環境のうちに認識してゆくために必要なことであるけれども、流行にとらはれることなく、どこまでも自分に立脚して勉強することが大切である。そして先づ自分に合ふ一人の哲學者、或ひは一つの學派を勉強して、その考へ方を自分の物にし、それから次第に他に及ぶやうにするのが好くはないかと思ふ。最初から手當り次第に讀んでゐては、結局同じ處で足踏みしてゐることになつて進歩がない。他の立場に注意することはもちろん必要であるが、先づ一つの立場で自分を鍛へることが大切である。廣く見ることは哲學的である、同時に深く見ることが哲學的である。
 ドイツは世界の哲學國といはれてをり、哲學を勉強するにはドイツのものを讀まねばならぬが、ドイツの哲學には傳統的に難解なものが多いといふことがある。英佛系統の哲學になると比較的やさしく讀めるであらう。やさしいから淺薄であると考へるのは間違つてゐる。ドイツの影響を最も受けてゐる現在の日本の哲學書を難解
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