第一流の科學者の著述に向ふことが肝要である。
 かやうなものとして哲學を勉強しようとする人に勸めたい本は、私の乏しい知識の範圍でも、かなり多い。その一二の例を擧げると、例へばポアンカレの『科學と方法』その他である。マッハの如きも、マルクス主義流行の時代にはマッハ主義といつて輕蔑されたものであるが、見直さるべきものであると思ふ。少し方面を變へると、例へばクロード・ベルナールの『實驗醫學序説』である。更に社會科學の方面になると、マックス・ウェーベルの『科學論論集』の如きが先づ擧げられるであらうし、もつと方面を變へると、科學者とはいはれないにしてもゲーテの自然研究に關する諸論文の如きは勸めたいものである。
 かやうに科學といつても範圍は廣いし、その上各々の科學は次第に專門化してゆく傾向をもつてゐるとすれば、哲學の研究が科學と結び附かねばならぬことは分るにしても、人間は萬能でない限り、どうしたらよいのかと問はれるであらう。その場合私はやはり自分に立脚すべきことをいひたい。一通り廣く見ることは必要であるが、何か一つの學科を選んで深く研究し、できるなら、專門家の程度に達するやうにしたいものである。哲學は普遍的なものを目差すのであるが、普遍的なものは特殊的なものと結び附いて存在する。抽象的に普遍的なものを求むべきではなく、特殊的なもののうちに普遍的なものを見る眼を養はなければならぬ。數學的物理學は近代科學の典型であり、それを知ることは大切であるが、すべての人の才能がそれに適するわけではなからう。しかし種々の自然科學及び文化科學の中には、何か自分に興味がもて自分に適するものがある筈である。ベルグソンは、數學や物理學はギリシア以來その基礎が定まつてをり、現代の科學として哲學において注目すべきものは生物學と心理學である、といつてゐるが、この意見の當否はともかく、彼の哲學が生物學の研究に負ふところの多いことは一般に認められてゐる。論理主義を唱へて心理主義を攻撃した新カント派の哲學が一時わが國に流行してから、哲學を學ぶ者が心理學を勉強するといふ、それ以前の日本ではむしろ常識として行はれたことが次第になくなつていつた。しかし最近のゲシュタルト心理學の如き、或ひはまたプラグマティズムの哲學と結び附いて發達してゐるアメリカの社會心理學の如き、哲學の研究者の顧みなければならぬものであらうと思ふ。更に現代の科學として特に重要な意味をもつてゐるものに、社會科學、文化科學、精神科學、歴史科學等の名をもつて呼ばれるものがある。歴史的社會的實在が現代哲學の根本問題であるともいはれるのである。自然科學はガリレイ以來その基礎が定まつてゐるが、社會科學にはまだそのやうに定まつたものがなく、その基礎を明かにすることが現代の重要な課題であるともいはれるであらう。要するに學問においても、人生においてと同樣、自分を發見することが大事である。その自分は同時に時代のうちに發見されるものであることは云ふまでもない。
 哲學はもちろん科學と同じではない。しかし哲學は科學によつて媒介されねばならぬ。科學を萬能と考へるのではない。そのやうに考へる人には哲學は不要であらう。無條件に科學を信じてゐる者はすぐれた科學者になることもできないであらう。科學的知識を絶對的なもののやうに考へるのはむしろ素人のことであつて、眞の科學者は却つてつねに批判的であり、懷疑的でさへあるといはれるであらう。少くとも科學を疑ふとか、その限界を考へるとかいふところから哲學は出てくる。しかしながら懷疑といふのは、物の外にゐて、それを疑つてみたり、その限界を考へてみたりすることではない。かくの如きは眞の懷疑でなくて、感傷といふものである。懷疑と感傷とを區別しなければならぬ。感傷が物の外にあつて眺めてゐるのに反し、眞の懷疑はどこまでも深く物の中に入つてゆくのである。これは學問においても人生においてもさうである。容易に科學の限界を口にする者はまた無雜作に何等かの哲學を絶對化するものである。感傷は獨斷に陷り易い。哲學はむしろ懷疑から出立するのである。そのやうな懷疑が如何に感傷から遠いものであるかを知るために、既に記したデカルトの『方法敍説』を、或ひはまた懷疑論者と稱せられるヒュームの『人生論』を、或ひは更にモンテーニュの『エセー(隨想録)』を讀んでみるのも、有益であらう。

       八

 多くの人々は人生の問題から哲學に來るであらう。まことに人生の謎は哲學の最も深い根源である。哲學は究極において人生觀、世界觀を求めるものである。ただその人生觀或ひは世界觀は哲學においては論理的に媒介されたものでなければならぬ。もちろん直觀を輕蔑すべきではない。そして忘れてならないのは、直觀も訓練によつて育てられるものであるといふこと、その訓練
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