いふのは特に内的生もしくは「内的人間」のことである。さきに心理といつたものは純粋に心理的なものではなく、むしろもつと感性的ともいはるべき内的人間の意味に解されねばならぬ。外的人間や生活はどれほど断片的に見えてもそのじつ連続的であるに反して、内的人間や生活は深く理解すればするほど断片性をあらはにするやうに思はれる。これ、その面白さが主として、その「人間」の面白さにかかり、その上乗なるものは内的生活の描写にあるといはれる日記の根本的性格が断片性である所以である。生の断片性を最も明かに現はさせるものは、それ自身生の根本的規定に属するところの死の立場である。従つてすぐれた日記の多くは死の立場から書かれた生の記録である。例へば、アミエルの日記は最上の日記のひとつと認められてゐる。ところでトルストイは彼の愛読したこの日記について書いてゐる、彼は、「我々が凡て死を宣告されて、ただその執行を猶予されてゐるだけであることを痛感してゐる。そしてこれこそ、この書が非常に真摯で、厳粛で、有益なる所以である。」
よき自叙伝はよき日記よりも稀である。ゲーテの『詩と真実』は最上の一つといつてよいであらうが、有名ルソーの懴悔録でさへ甚だすぐれた自叙伝に数へられ得るかはすでに疑問である。これひとつには、自叙伝は他人に読まれることを予想して書かれ、そして他人の前で自己を正直に告白することは困難であるのによるともいはれよう。日記は少くともその本性上は他人に読ませようとするものではない。尤も日記が全然他人の存在を予想せずして書かれると考へるのは間違ひだ。人間の社会性ははるかに深く根差してをり、人間は最も内密な行為においても社会的に規定されてゐる。それはとにかく、自叙伝において専ら自己についてのみ語らうとしたものはたいてい失敗してをり、むしろ自己の環境について、環境と自己との交互作用について述べようとしたのが成功してゐる。
これは日記と自叙伝との種類の区別を暗示するものでなければならぬ。両者はよく一緒に語られるけれども、実はその性質を異にしたものである。日記が抒情詩と同じ線にあつて反対の方向にあるいはゆる自照の文学に属するとすれば、自叙伝は叙事詩と同じ線の上にある歴史文学に属してゐる。一方を主観的性質の文学といふならば、他方は客観的性質の文学といはれよう。日記の性質が断片的であれば、自叙伝の性質は構成的である。
構成的であることを要求されてゐるところに自叙伝の困難がある。なぜなら構成的手法または技巧はたいていの場合自己の思想や感情のまともな表現を害ふものであるから。歴史的であり、従つてすぐれた「歴史的意識」が必要とされてゐると共に、それがほかならぬ「自己」の歴史であるべきところに、自叙伝の困難がある。それでイギリス史についての大作をなしたヒュームも自伝については最も簡単に記す道を選んだのである。
もつとも伝記、そして自叙伝といふ語はもつと広い意味に用ゐられることもできる。かくて例へばいふ、プラトンの対話篇アポロギアよりもすぐれたソクラテスの伝記はあるであらうか、と。またいふ、彼の懴悔録よりほかにアウグスティヌスの如何なる伝記も本質的に存し得ない。またいふ、キェルケゴールの日記は彼について存し得る唯一の伝記である。このやうにして日記と自叙伝とは一つの範疇に入れられる。そしてこれは或る意味でたしかに正しい、且つ深い見方を含んでゐる。だがその意味を哲学的に解明するための余白を私はもうもつてゐない。
最後にただひとこと。日記と自叙伝に対する興味が他人の私事の秘密をのぞかうといふ卑しい心、成功主義的または英雄主義的の安価な感激を求むる心にもとづかないにしても、それが心理的主観的なものに対する偏愛、客観的現実と社会的実践からの逃避、主観主義的、個人主義的な道学者趣味、等々のものにしらずしらず結び付いてゐることの多いのを指摘しておくことが必要であらう。日記や自叙伝に対する興味は「文化人」のものであるといふことのうちにすでに或る危険が含まれてゐる。
底本:「日本の名随筆 別巻28 日記」作品社
1993(平成5)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「三木清全集 第一二巻」岩波書店
1967(昭和42)年9月発行
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2010年3月3日作成
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