が混じてゐる。これらのこころは媚られることができるであらう。リアリズムの最も要求される日記や自叙伝においてほどまた実際にそれの困難なところはないからである。
 三つの種類の人間或ひは人間の三つのこころに相応して文学の三つの現実の形態がある。第一のものには特にいはゆる軟文学が、第二のものにはいはゆる大衆文学が、第三のものには主としていはゆる心理小説が相応するともいはれよう。
 日記や自叙伝の要求するのは完全なリアリズムである。それの精神は文学的精神でなく科学的精神であるとさへいつてよい。さういつたからとて、我々が例へば日記を書かうとするのは、あらゆる人間に具はつてゐる自己表現の欲求即ち芸術的欲求のおのずからなる現はれでないといふのではない。然し素人の文学的表現の好みほど危険なものはない。さういふ好みのうちには自己にこび、あまえ、もしくは自己をひけらかすこころがひそんでをり、或ひは容易に忍びこむものである。そこに要求されてゐるのは詩的精神でなく、散文的精神であるといつてよい。詩にリアリズムがないといふのでない。然し詩的であらうとするとき、装飾的になつたり、センチメンタリズムに陥つたりし易いものだ。
 かくて日記についていへば、淡々としてただ事件を叙したのに案外面白いものがある。もちろん日記の本来の面白さは事件そのものにあるといふよりも、日常茶飯事を述べて筆者の主観などとても現はれさうにないところにその主観がおのづからにじみ出てゐるところにある。従つて上乗の日記は事件の叙述よりも心理の描写に求めらるべきであらう。しかし心理を十分に描いて完全なリアリストであることはまつたく容易のことではない。どうしてもあまくなりたがる。或ひは教訓的、道学者的となり易い。教訓的な実用的歴史は心理主義的であるのがつねである。ところで道学者といふものはまるであまい物の見方をしてゐることが多いと思ふ。日記は簡潔なのがふつう面白い。自分を多く語つて真実であることは困難であるからである。文豪といへども日記では筆を惜むのがつねだ。
 断片性は日記の最も根本的な性格である。そのことは多くの日記がつれづれに、きれぎれに書かれるといふことによるのではなく、却つて日記そのものの最も内的な本質を現はすのである。即ち日記の断片性は根本的に「生の断片性」にもとづくのである。生の最も内的な規定は断片性である。ここに生と
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