ェルケゴール、ニーチェ、ドストイェフスキー、バルト、アウグスティヌス、等々の読書が今は活きてくるように感じた。ストロウスキーの『パスカル』、ブトルーの『パスカル』等々の文献を集めて読み始めた。『パンセ』は私の枕頭の書となった。夜ふけて静かにこの書を読んでいると、いいしれぬ孤独と寂寥の中にあって、ひとりでに涙が流れてくることもしばしばあった。原稿用紙を持っていなかったので、洋罫紙に向って私は先ず「パスカルにおける人間の分析」という論文を書いた。かようなものが哲学の論文として受取られるかどうかについて不安を感じながら、私はそれを『思想』に送った。そしてさらに続けて私のパスカル論を書いていった。こうして出来上ったのが『パスカルにおける人間の研究』であり、大正十五年に私の処女作として出版されるようになった。その中の最後の一章は、日本へ帰ってきてから京都で書いたものであるが、他の部分はパリの下宿で出来たものである。私の処女作出版は失敗であった。当時岩波書店の卸部にいた坂口栄君が後に私に話したところによると、あの時分岩波の本で、小売屋に出してあんなに多くの返品があった本はないということである。それは当然であった。私はもとより無名の書生であったし、パスカルといえば専門家を除き一般の読者においては中学校の数学の時間にパスカルの定理というものを習った記憶があるだけで、そのパスカルと『人間の研究』――こういう言葉も当時の読者には全く親しみのないものであったであろう――との間にどのような関係があるのか、理解できないことであった。そしてそれはまた当然であるのだ。パスカルというのはそのように不思議な存在なのである。もちろん、現在では事情が変っている。『パンセ』を初めパスカルのいくつかの作品が翻訳され、広く読まれている。私のパスカルもその後徐々に読者を見出すようになり、今も版を重ねている。出来不出来は別として、処女作の出版というものは著述家にとってつねに懐しい思い出である。
パスカルやモンテーニュから入って、私はフランス哲学に対して次第に深い興味をもつようになった。それもさかのぼると、西田先生の著書や講義でメーヌ・ドゥ・ビランなどという、当時わが国ではあまり知られていなかった哲学者のことを知らされて、未知のものに対する憧れを感じたことに由来するであろう。私はいつも未知のものに対して憧れてきた。マールブルクからパリへ、永らく考え慣れたドイツ哲学の土地を離れて出て来たのも、未知のものに対する憧れからであった。西田先生は近年ことによくフランス哲学の研究をひとに勧められていたようである。パスカルについて書いているうちに、次に書いてみたいと考えたのはデカルトであった。その時分シュヴァリエの『パスカル』および『デカルト』を読んで、その明晰な叙述から利益を受けたが、それに影響されたというものであろうか。この次はデカルトについて書くとたびたび友人に話し、一度は私のデカルト研究というものの予告が書肆の広告にも出たくらいであるが、いまだに実現しないでいるのは恥しいことである。――今度『文学界』にデカルト覚書の連載を始めたのも、いつまで続けられるか分らないことではあるが、せめて当座の埋合せにしたいためである。――パリの下宿で描いていた夢をすぐに実現するにしては全く違った事情がやがて帰って来た日本においては存在していたのである。しかしマールブルク以来私の経験したいわゆる不安の哲学とか不安の文学とかが数年後には日本においても流行するようになった。それが数年後であったということは当然であった。なぜならそれが来るためにはフランスやドイツにおいて見られたように一つの要素、すなわちマルキシズムの流行が先ずなければならなかったからである。それが順序である。そう考えてくると、思想の流行というものにも何か必然的な法則があるように思われるのである。
[#地付き](『文芸』一九四一年六月―十二月号)
底本:「現代日本思想大系 33」筑摩書房
1966(昭和41)年5月30日初版発行
1975(昭和50)年5月30日初版第14刷
初出:「文芸」
1941(昭和16)年6月号〜12月号
入力:文子
校正:川山隆
2007年1月7日作成
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