ら親しんでいた。いったい三木という姓は私の地方には多く、播州三木城の別所氏が豊臣秀吉に滅ぼされた時、家臣たちが亡命して身を晦《くら》ますために元の姓を秘してその土地の名をとり三木と称したのに始まると伝えられている。中学の頃には『廃園』、『寂しき曙』の中の露風の詩を愛誦したが、トラピスト修道院に入ってからのこの人の詩はあまり見ていない。歌ではやはり白秋の作品が最も好きであった。吉井勇の歌も好んで読んだ。歌といえば、私はその時分かなり熱心に稽古したことがあり、竜野中学の校友会雑誌には当時私の作った歌がいくつか残っているはずであるが、作歌の上で特に影響を受けたのは、その時代の多くの青年に普通であったように、若山牧水であったであろうか。

      四

 中学時代、私の得意としたものがあるとすれば、それは歴史であった。中にも山路愛山の史伝類をよく読んだが、特に『常山紀談』とか『日本外史』とかを愛読した。その頃は漢文も私としては得意とするものであったが、経書よりも史書を見ることが好きであった。竜野の脇坂藩の儒者で本間貞観という先生が私どもの中学に教えに来られていた。ところでまた藤岡に誘われて私は一年近くの間、この老先生のお宅に伺って、漢詩を作ることを稽古したことがある。その時分私は学校の作文では、当時の中学生に広い影響を与えていた大町桂月を読んで、桂月張りの文章を書いていたが、漢詩を習うようになってから勉強したのは久保天随とか森槐南とかの著書であった。一時は『唐詩選』の中の詩をできるだけ多く暗記するつもりで取りかかったことがある。先だって冨山房百科文庫で森槐南の『唐詩選評釈』を買ってきて読み、昔を思い出して懐しかった。
 図画の教師で法制経済も教えておられた先生に巌本という人があった。私はこの先生から思想といえば思想らしいものを注ぎ込まれたのである。藤岡にいわせると、巌本先生は社会主義者であるといっていたが、むしろニヒリストであったようである。幸福でなかった先生の境遇が恐らくそうしたものであろう。先生はもと評論家か新聞記者になられるつもりであったらしく、その仕事の重要さをよく話しておられた。私どもは教室でもしばしばこの先生から、中江兆民、福沢諭吉、徳富蘇峰、三宅雪嶺などについて聞かされたものである。しかし私はその頃はむしろ文学に熱中していて、思想の問題についてはそれほど深い関心がなかった。巌本先生から教えられたものの中では、蘆花との因縁で、蘇峰氏のものを最も多く読んだが、それもその時分流行していた演説の材料にするつもりで読んだので、思想的影響というようなものはなかった。
 播州赤穂は竜野から五里ばかりのところにある。私どもの中学では毎年義士討入りの日に全生徒が徹夜で赤穂の町まで行軍を行ない、そこで義士追慕の講演会を開くのが例であった。その講演会には生徒のうちの雄弁家が出ることになっていたので、平素においても演説はなかなか盛んであった。もっとも、これは、その時代が日本におけるいわば一つの雄弁時代であって、今の『雄弁』という雑誌もその頃は名のごとく主としてわが国の有名な雄弁政治家の演説の速記を載せていたような有様で、私どもの田舎の中学でも擬国会を催したこともあるという時代の一般的な空気の影響でもあり、むしろそれが根本的であった。私も一時は『雄弁』の愛読者であって、中学の裏の山に登って声を張り上げて演説の稽古をしたこともある。国語の教師に野崎先生というのがあり、演説が得意で、生徒にもそれを奨励されていた。赤穂の講演会での演説の準備という意味もあって、義士伝はその時分ずいぶんいろいろ読み漁った。福本日南の『元禄快挙録』なども感激して読んだものであるが、今は岩波文庫の中に収められるようになった。
 かようにして中学時代の後半は、私の混沌たる多読時代であった。私は大正三年に中学を卒業したが、私の中学時代は、日本資本主義の上昇期で『成功』というような雑誌が出ていた時である。この時代の中学生に歓迎されていた雑誌に押川春浪の『冒険世界』があった。かような雰囲気の中で、私どもはあらゆる事柄において企業的で、冒険的であった。私の読書もまたそうであったのである。これに較べると、高等学校時代の私は種々の点でかなり著しい対照をなしている。

      五

 自分について語ることは危険なことである。それは卑しいことであり、少なくとも悪い趣味であるといわれるであろう。私は書物について書きながら自分について、また他の人々について書くことになった。どのような本を読んだかは、ある意味ですべて偶然的なことである。しかし他方それはまたすべて必然的なことである。この偶然性と必然性とをいくらかでも示すためには、人間について、とりわけ自分について書くのを避けることができない。それから生じ易い危険を逃れる手近な方法は、できるだけ簡単に、事実だけを記すということである。
 中学を出ると、私はひとりぼっちで東京のまんなかに放り出された。一高に入学した私は、そこに中学の先輩というものを全くもたなかった。そして私はまた卒業するまでそこに中学の後輩というものを全くもたないでしまった。かようなことがわが国の特殊な社会事情において、ことに田舎から出て来た一人の青年にとって何を意味するかは、読者の想像し得ることであろう。そのうえ私の家には東京に知人というものがまるでなかった。その頃は九月の入学であったが、叔父が紹介してくれた保証人に挨拶に行くという父と一緒に途中暴風雨のために東海道線が不通になったので、中央線を廻ってたくさんのトンネルを抜け、油煙と汗とに汚れて、飯田町の駅に降りた時の気持は今も忘れることのできないものである。後には次第に学校の友も出来たが、私の心はほとんどつねに孤独であった。田舎者の私は、特に父の血をうけて、交際ははなはだ不得手であった。学校の寄宿舎で暮して、町に知った家がなかった私には、家庭生活の雰囲気に触れることも不可能であった。結局私は、東京に住むようになってからも、いつまでも孤独な田舎者であったのである。
 こうした孤独には多分に青春の感傷があったであろう。孤独な青年が好んでおもむくところは宗教である。むしろ宗教的気分というものである。宗教的気分はいまだ宗教ではない。それは宗教とは反対のものでさえある。宗教的気分がつねに多かれ少なかれ感傷的であるのに反して、宗教そのものはかえって感傷を克服して出てくるものである。自分で宗教的であると考えることそのことがすでにひとつの感傷に過ぎぬ場合がいかに多いであろう。高等学校時代を通じて私が比較的たくさん読んだのは宗教的な書物であった。それも何ということなく、いろいろのものを読んでいる。キリスト教の本も読めば、仏教の本も読む。日蓮宗の本も読めば、真宗の本も読む、また禅宗の本を読むこともあるという風であった。そうして一種の宗教的気分に浸るということが慰めであるように感じられた。今にして考えると、青春の甘い感傷に属するに過ぎぬものが多い。もちろん私は甘さというものを一概に無価値であるなぞと考えるのではない。それはともかく十分に日本的であるということができるであろう。『聖書』は繰り返して読んで、そのつど感銘を受けた本であった。しかし旧約の面白さがわかるようになったのは、ずっと後のことである。『聖書』は今も私の座右の書である。仏典の経典では浄土真宗のものが私にはいちばんぴったりした。キリスト教と浄土真宗との間にはある類似があると見る人があるが、そういうところがあると考えることもできるであろう。元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する「正信偈」とか「御文章」とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に坐ってそれを誦することがあった。お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。こうした子供の時からの影響にもよるであろう、青年時代においても私の最も心を惹かれたのは真宗である。そしてこれは今も変ることがない。いったいわが国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遙かに親しみが感じられるのである。いつかその哲学的意義を闡明《せんめい》してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。近角常観先生の『歎異鈔講義』も忘れられない本である。本郷森川町の求道学舎で先生から『歎異鈔』の講義を聴いたこともある。近角先生はその時代の一部の青年に大きな感化を与えられたようであった。島地大等先生の編纂された『聖典』は、現在も私の座右の書となっている。
 私のみではない、その頃の青年にはいったいに宗教的な関心が強かったようである。日本の思想界が一般に内省的になりつつある時代であった。中学時代の初めに興味をもって読んだ『冒険世界』というような雑誌がいつしか姿を消して、やがて倉田百三氏の『出家とその弟子』とか『愛と認識との出発』とかが現われて青年の間に大きな反響を見出すようになる雰囲気の中で、私は高等学校生活を経てきた。一高にも日蓮宗とか、禅宗とか、真宗とかの学生の会があり、私も時々出席してみたことがある。私の最も親しくするようになった宮島鋭夫に誘われて、ある夏私は彼と一緒に鎌倉の円覚寺の一庵に宿り、坐禅をしたこともある。一日禅坊を出て、宮島の知っている堀口大学氏が浄智寺に来ておられるというので訪ねたことがある。堀口氏に会うといつもあの頃のことを思い出すのであるが、まだ口にしないのである。恐らく堀口氏の記憶には残っていないことであろう。

      六

 私の文学熱はこうして冷めていった。中学を卒業する前、将来は文学をやろうと考えて、当時鹿児島県に移っておられた寺田喜治郎先生に手紙で相談し、先生からは勧めの返事をいただいたのであるが、一高の文科に入ってからはそうした考えはむしろ薄らいでいった。私は文学に対しても懐疑的になっていた。弁論部に関心がなかったと同様、文芸部にも興味がなかった。一年生の時にはかえって一時剣道部に席をおいたことがある。こうした私は芹沢慎一氏――光治良氏の令兄――にひっぱられてボート部に入り、組選を漕ぐことになった。墨田川に行ってボートを漕ぐことは、運動は元来不得手であるにもかかわらず、当時懐疑的になっていた私にとって一つの逃避方法であった。一緒に組選を漕いだ仲間で哲学方面へ行った者には、後に東北大学の宗教学の助教授にまでなって惜しいことに病に斃れてしまった寺崎修一がある。独法の我妻栄、三輪寿壮などの諸君もボートの関係で知り合いになった人々である。京都大学に入ってからも、私は文科の選手として琵琶湖や瀬田川でボートを漕いだことがある。
 ともかく私の読書の興味の中心は次第に文学書から宗教書に移っていった。それは時代の精神的気流の変化の影響によることでもある。トルストイの『わが懺悔』が文学青年の間にも大きな影響を見出すというような時代であった。これは私も感激をもって読んだ本である。私はいつのまにか『芸術とは何ぞや』におけるトルストイに共鳴を感じるようになっていた。彼の『人生論』なども感動させられた本である。私の場合かようなことは中学時代に耽読した徳富蘆花の影響によって知らず識らず準備されていたといえるであろう。私も一時はある種のトルストイ主義者であった。去年の夏、満洲を旅行した時、汽車の中へ岩波文庫版の『イワンの馬鹿』、『人は何で生きるか』というような当時愛読したトルストイの小品を持ち込んで久し振りに読み直してみたが、今度はそれほど深い感動を覚えることができなかった。私はそこに何か気取りに似たものを感じた。しかし老齢になってからもなお気取ることができたとこ
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