、久保氏の勧めで当時面白く読んだものである。久保氏は私たちの仲間で博識家として知られていたが、私がフランスの書物を多く読むようになったのは、深田康算先生とこの久保氏との影響であった。あの頃読んだもので特に思い出すのはポール・グゼルの録したロダンの言葉である。後に叢文閣から高村光太郎氏の編訳で『ロダンの言葉』、『続ロダンの言葉』が出た時、私は早速求めたが、当時を思い出したためである。フロベールの書簡は、深田先生が、お訪ねすると、いつも面白いと話されるので、私も読んでみたが、なるほど面白かった。深田先生はまた、アナトール・フランスが好きであったようで、お訪ねするとやはりその話がよく出たものである。その頃私の見たのは『エピクロスの園』くらいであったが、後にパリの下宿で一時アナトール・フランスのものばかり読みふけったことがあるのは、深田先生の話がいつか私の頭に染みていたせいもあるであろう。その下宿は知らずしてアナトール・フランスの家の近くにあったが、ちょうど私のパリにいた時に彼は死んで、私は安倍能成氏と一緒にその葬式に行った。何かの因縁というものであろうか。そういうわけで、今は亡き深田先生のことを思い出す場合、アナトール・フランスを連想することが多いのである。
 私の生涯にもやがて新しい変化が来た。学校を出てから二年間、大谷大学、ついでまた竜谷大学で哲学の講師をしていた私は、外国へ旅立ったのである。

      十一

 外国で暮した三年間は、私のこれまでの生涯において最も多く読書した時期であった。その間、私はあまり旅行もしないで、ほとんど本を相手に生活した。留学は私にとって学生生活、下宿生活の延長に過ぎなかった。幸いなことに――この言葉はここでは少し妙な意味をもっている――私はまた当時思う存分に本を買うことができた。ドイツにおけるあの歴史的なインフレーションのおかげで私たちは思いがけなく一時千万長者の経験をすることができたのである。先日も私はラテナウの『現代の批判』という本を読みながら、初めてドイツに入った日のことを想い起した。マルセーユからスイスを通り、途中ジュネーヴを見物して、ドイツに入ったその日、私たちは汽車の中で見た新聞によってラテナウが暗殺されたことを知ったのである。私たちというのは船の中で知り合った四、五人の仲間で、その中にはブルーノ・タウト氏の弟子となった若い建築家上野伊三郎がいた。(上野の名は岩波新書の『日本美の再発見』におけるタウト氏の文章の中に出てくるから読者の中には記憶されている方もあろう)。今手許にあるヘルデルの百科辞書を開いてみると、ラテナウは一九二二年六月二四日ベルリンで「ユダヤ人並びに[#ここから横組み]“〔Erfu:llungspolitiker〕”[#ここで横組み終わり](ヴェルサイユ条約履行主義の政治家という意味)として国民社会主義の行動派によって暗殺された」とある。ラテナウ暗殺事件以来マルクは急速に下落を始め、数日後にはすでに英貨一ポンドが千マルク以上になった。やがてそれが一万マルク、百万マルク、千万マルクとなり、ついには一兆マルクになるというような有様で、日本から来た貧乏書生の私なども、五ポンドも銀行で換えるとポケットに入れ切れないほどの紙幣をくれるのでマッペ(鞄)を持ってゆかねばならないというような状態であった。ハイデルベルク大学の前にワイスという本屋がある。講義を聴いての帰り、私はよく羽仁五郎と一緒にその本屋に寄って本を漁った。それは私ども外国人にとっては天国の時代であったが、逆にドイツ人自身にとっては地獄の時代であったのである。その頃ドイツには日本からの留学生が非常に多くいた。私の最も親しくなったのは羽仁であったが、私と同時にあるいは前後して、ハイデルベルクにいて知り合った人々には、大内兵衛、北※[#「日+令」、第3水準1−85−18]吉、糸井靖之(氏はついにハイデルベルクで亡くなった)、石原謙、久留間鮫造、小尾範治、鈴木宗忠、阿部次郎、成瀬無極、天野貞祐、九鬼周造、藤田敬三、黒正厳、大峡秀栄、等々、の諸氏がある。
 私がハイデルベルクに行ったのは、この派の人々の書物を比較的多く読んでいたためであり、リッケルト教授に就いてさらに勉強するためであった。リッケルト教授はハイデルベルクの哲学を代表し、その講義はかつてヘーゲルが、クーノー・フィッシェルが、ヴィンデルバントが講義したことがあるという由緒のある薄暗い教室で行なわれた。――リッケルトに『ドイツ哲学におけるハイデルベルクの伝統』(一九三一年)という講演の出版されたものがある。――リッケルト教授には自分の家を離れると不安を感じるという一種の神経性の病気――学生たちはたしか[#ここから横組み]“Platzangst”[#ここで横組み終わり
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