から影響されたのは、それがその時までほとんど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間はほとんどただ蘆花だけを繰り返して読んでいたという事情によるところが多い。このような読書の仕方は、かつて先ず四書五経の素読から学問に入るという一般的な慣習が廃《すた》れて以後、今日では稀なことになってしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当り次第のものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。もちろん教科書だけに止まるのはよくない。教科書というものは、どのような教科書でも、何らか功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。
もし読書における邂逅《かいこう》というものがあるなら、私にとって蘆花はひとつの邂逅であった。私の郷里の竜野は近年は阪神地方からの遊覧者も多い山水明媚の地であるが、その風物は武蔵野などとはまるで違っている。その土地で大きくなった私が武蔵野を愛するようになったのは、蘆花の影響である。一高時代、私はほとんど毎日曜日、寮の弁当を持って、ところ定めず武蔵野を歩き廻ったことがある。それはその頃読んでいた芭蕉などに対する青年らしい憧憬でもあったが、根本はやはり『奥の細道』でなくて『自然と人生』であった。蘆花を訪ねたことはついになかったが、彼が住んでいた粕谷のあたりをさまよったことは一再ではない。利根川べりの息栖とか小見川とかの名も蘆花を通して記憶していて、その土地を探ねて旅したこともある。彼によってまず私は自然と人生に対する眼を開かれた。もし私がヒューマニストであるなら、それは早く蘆花の影響で知らず識らずの間に私のうちに育ったものである。彼のヒューマニズムが染み込んだのは、田舎者であった私にとって自然のことであった。今も私の心を惹くのは土である。名所としての自然でなくて土としての自然である。それは風景としての自然でさえない。芭蕉でさえも私には風流に過ぎる。風流の伝統よりも農民の伝統を私は尊いものに考えるのである。もっとも、蘆花の文学は農民の文学とはいえないであろう。私は今彼を読み直してみようとは思わない。昔深く影響されたもので、その思い出を完全にしておくために、後に再び読んでみることを欲しないような本があるものである。
三
中学の同級生に古林巌というのがいた。後に姓を改めて藤岡といったが、私どもの学校で有名な秀才で、非常な読書家でもあった。四年生の時彼が寄宿舎を出て私の村に下宿するようになってから親しく交わるようになったが、その時以来私は彼の影響でいろいろな書物を読むようになった。考えてみると、私が哲学を志望するようになったのも、藤岡の感化に基づいている。五年生の頃、彼は永井潜博士の著書を愛読し、しきりに生命の問題を論じ、私をとらえては器械説がどうの、生気説がどうの、と語り、フェルウォルンを尊敬し、その『一般生理学』を読むためにすでにドイツ語の勉強を始めていた。その時分の中学では恐らく珍しい科学講演会というものを組織したのも彼であった。彼に刺戟されて私も永井博士の『生命論』を読み、あるいは丘浅次郎博士の『進化論講話』を繙《ひもと》きなどして、生命の問題に関心をもつようになったことが、後に私が哲学に入る機縁となったのである。藤岡は六高を経て京大の医科を卒業して生理学を研究し、特に生理学史に興味をもち、その方面の論文を発表していたが、不幸にして病に斃《たお》れてしまったのは惜しいことであった。彼も後年にはよく哲学の本を読んでいたようである。坂田徳男君は彼と同郷の後輩で、彼と同じように六高を経て京大の医科を卒業して生理学を勉強したが、今日では専門の哲学者になってしまった。
たいていの人は先ず文芸書を通して読書家になるのではないかと思う。藤岡の場合もそうであり、いつも彼に指導されていた私の場合もそうであった。それに藤岡は初めは文学者になるつもりであったらしく、彼の提唱で文芸の回覧雑誌が出来、私も一、二小説めいたものを書いたことがある。その時の同人に現在新京の建国大学にいる宗教学の松井了穏がある。その頃私は、紅葉、露伴から、漱石、鴎外、一葉、樗牛、独歩、花袋、秋声、白鳥、荷風、潤一郎、三重吉など、実にいろいろなものを読んだが、特に感銘を受けたものを挙げるとすれば、藤村の『破戒』、『春』、『家』といったもの、『即興詩人』とか『涓滴』などの鴎外のものを挙げねばならぬであろう。その後藤村のものはあまり見ないが、鴎外のものは今もときどき見ることがある。竜野の町に伏見屋という本屋があって、私はよく学校の帰りにそこに寄って本を漁《あさ》
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