野伊三郎がいて、しばらく滞在している間に、私はいつものように本屋を歩き廻ったが、先ず目にとまったのは、フランスの本を置いている店があるということであった。これはドイツでは見なかったことである。ウィーンはフランス文化の影響を多く受けていた。久しぶりでフランス書を見るのが懐しくて店へ入ってゆくと、ジードのものがたくさん置いてあるのが目についた。ドイツ書ではドストイェフスキーの独訳本の多いことが注意をひいた。考えてみると、その時分のオーストリアにおいてもまたいわゆる不安の文学が流行していたのである。私はその頃、恥しい話だが、アンドレ・ジードの何者であるかを知らなかった。ともかく彼の本がたくさん並べてあるところをみると、重要な流行作家に違いなかろうと考えて、その幾冊かを求めて鞄の中に入れた。ウィーンからの汽車の中で、私は初めて彼の『インモラリスト』を繙き、何か全く新しいものに接した気がした。マールブルクに帰ってきて、レーヴィット氏にその話をすると、この博識なドクトルはジードについていろいろ話してくれた。そのとき氏からドイツにおける最もすぐれたフランス研究家として教えられた名にエルンスト・クルチウスがある。クルチウスの新著の『バルザック』をぜひ読めと勧められたので、買って読んでみると、なるほど面白かった。その後さらにクルチウスの『新ヨーロッパにおけるフランス精神』という本を見る機会があったが、これもよい本であったように思う。
 パリにいた小林市太郎君に下宿の世話を頼んでおいて、ケルンを通ってパリへ出たのは秋の初めであった。小林君は私と同様京都の哲学科の出身なのでかねて知っていたが、現在は大阪の美術館にいて、支那美術の研究を専門にしている。最初パリには長く滞在するつもりでなかった。すでに二か年半をドイツで過していたので、パリには三、四か月もいて、そろそろ帰国の仕度をしなければならないだろうと考えていた。それがとうとう一か年の滞在になってしまった。大都会というものは孤独なものである。孤独を求めるなら大都会のまんなかである。パリの街ではいつも多くの日本人を見た。しかし私が親しくしたのは小林君くらいのもので、それも下宿が離れていたため頻繁には会わなかった。そのほかパリで初めて知り合った友人といえば芹沢光治良君くらいのものである。もっともパリはヨーロッパへ行った者が一度は訪ねる所なので
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