へ入って来て、熱心に同僚の講義を聴いているブルトマン教授の面影が今の私の眼に浮かんでくる。その後出版された教授の『イエス』という書物を私は深い感銘をもって読んだ。事実、これは小さな本ではあるが、すぐれたものであると思う。ハイデッゲル教授やレーヴィット氏の話をきいて、私は弁証法的神学に興味をもつようになり、バルトの『ロマ書』とか『神の言葉と神学』などを繙くようになった。もちろん、オットー教授の『聖なるもの』も読んでみた。その頃教授はやがて『西・東神秘主義』となって現われたような問題を考えておられ、仏教に関心をもっておられたということにもよるのであろう。日本の留学生が好きで、自宅に招いてお茶の会を開かれたりした。私はまたときどきオットー教授に誘われて、ラーン河の向うの小高い丘を一緒に散歩したことがある。
 哲学の方面では、ハイデッゲル教授のほかに、ニコライ・ハルトマン教授の講義に出席した。教授もアリストテレスに興味をもっておられて、一度お訪ねした時、しきりにその話をされた。私が出たゼミナールで使われたのはカントの『純粋理性批判』とヘーゲルの『論理学』とであった。教授の『認識の形而上学』は、主観主義の哲学から入って、ラスクの研究によって次第に客観主義に傾きつつあった時分の私には、非常に新鮮で面白く感じられたが、ハイデッゲルの影響を強く受けるようになってから、ハルトマン教授の立場にはあまり興味が持てなくなった。マールブルクでは私はほとんど純粋にハイデッゲル教授の影響を受け容れたといってよいであろう。しかしその後ハルトマンの『倫理学』が出た時、私はこれを読んで再び教授の思想に対する興味を取り戻すことができた。
 マールブルクにいる間、そしてその後もときどき文通によって、私の読書を指導してくれたのはレーヴィット氏であった。私は氏によって単に哲学のみでなく、広くドイツ精神史の中に導き入れられた。ディルタイとか、さらにさかのぼってシュレーゲルやフンボルトなどに対して私の眼を開いてくれたのはレーヴィット氏であった。特に氏によって私は当時の多くのドイツの青年をとらえていたあの不安の哲学とか不安の文学の中へ連れて行かれた。私もニーチェやキェルケゴールなどを愛読するようになり、ことにドストイェフスキーの小説を耽読した。その頃のドイツは全く精神的不安の時期であった。ヘルデルリンが流行するかと
前へ 次へ
全37ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング