ルブルク大学に移って、ハイデッゲル教授について学ぶようになってからのことである。ハイデッゲルの哲学はそのような「戦後不安」の表現であった。その後ハイデッゲルは、ヘルデルリンに基づいて文学を論じている(『ヘルデルリンと詩の本質』一九三六年)。
ハイデルベルクにいた頃、私は日本を出てまだ間もないことで、京都以来の論理主義を離れず、カントやゲーテのドイツ以外のドイツを深く理解することができなかった。ハイデルベルクにはリッケルト教授と並んでヤスペルス教授がいて、ニーチェやキェルケゴールを講義していたが、私は二、三度出席してみただけであった。リッケルトがヤスペルスなどを批判している『生の哲学』(第二版一九二二年)を読んで別に共鳴したわけでもなかったが、ヤスペルスの『世界観の心理学』(第二版一九二二年)を読んでもその面白さは分らなかった。ヤスペルスの哲学の面白さを教えられたのも、やはりマールブルクへ行ってからのことである。要するに私のハイデルベルク時代は哲学的には京都時代の延長であった。私の集めた本にも論理学や方法論に関するものが多かった。
ハイデルベルクの教授でその講義を聴いたのは、リッケルトのほかにエルンスト・ホフマン教授である。哲学以外では、グンドルフの講義に数回出てみたことがある。ホフマン教授はディールスの弟子で、プラトン研究家として知られていた。私はホフマン教授の論文を訳して『思想』に載せたことがある。当時ドイツのインテリゲンチャはインフレーションのために生活が窮迫していたので、いくらかでも原稿料が入れば宜かろうと思って、私はその論文を教授に依頼したのであった。そんな状態であったので若いドクトル連中は皆喜んで日本人のために個人教授をした。ヘリィゲル氏の場合もそうであったが、同じように私が本を一緒に読んでもらった人に、後にやはり日本へ来て大阪高等学校で教鞭をとっているシンチンゲル氏がいる。氏はカッシーレルの所からハイデルベルクに移ってきたということであったが、たしかホフマン教授の紹介で、私はプラトンを読んでもらった。さらにヘーゲル全集を出してその名が広く知られるようになったヘルマン・グロックネル氏がある。氏はその頃リッケルト教授のところに下宿していたようであった。私は羽仁と一緒に氏からヘーゲルの『精神現象学』を読んでもらった。やはり羽仁と一緒に講義をしてもらった人に
前へ
次へ
全37ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三木 清 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング