車中に携《たずさ》え「車の音」などという詩を読んで、あの頃のことを懐しく想い起した。宗教書はいつも何か読んでいたが、当時最も深い感銘を受けたのは、フランチェスコの『小さき花』である、ヨルゲンセンのフランチェスコ伝を訳した久保正夫氏――天随氏の令弟――が東京から京都の大学院へ移って来て、私たちの仲間に加わったが、その久保氏もすでに亡き人である。
 大学を卒業すると同時に私は下鴨から北白川に下宿を変えた。その北白川の下宿に、その頃『改造』の特派員として京都に滞在していた浜本浩氏がよく訪ねて来た。雑誌に原稿を書けということであったらしかったが、私は貧乏をしていたけれども、そのような気持はなく、浜本氏も強いて主張しなかった。原稿を書いて銭にするというような考えは私にはなかったが、これは私ばかりでなく、あの頃の学徒はたいていそうであったので、近頃とは世の中も青年学徒の考え方もよほど違っていた。北白川の下宿に訪ねて来た人で忘れられないのは三土興三――忠造氏の令息――である。三土は非常な秀才で、人間としてもなかなか変っていて、私はその将来の畏《おそ》るべきことを感じた。その三土が後に大村書店から出た『講座』という雑誌にキェルケゴール論を書いたきりで自殺してしまったのは惜しいことであった。
 すでにいったごとく、東京では新しい時代が活発に動いていたが、京都はまだどこかのんびりしたところがあった。ベートーヴェン通をもって任じていた久保氏が来てから、私たちの仲間では音楽を語ることが盛んになった。日高第四郎君なども非常なベートーヴェン崇拝者であった。そうした影響で、私はロマン・ローランの『ベートーヴェン』を読んでこの作家に親しむようになり、その『ミケランジェロ』や『トルストイ』を読み、さらに『ジャン・クリストフ』に手をつけた。ベートーヴェンで思い出すのは、ハイデルベルクの初めの下宿の主婦がドイツ語の勉強のために紹介してくれたドクトル――その名は忘れてしまった――がまたベートーヴェン研究の専門家で、ドイツ語の稽古にベートーヴェンの文章を使用するという、いささか無法なことをするほどベートーヴェンに熱中していたことである。しかしそのおかげで買ったベートーヴェンの手紙や文章、同時代人の記録を編輯したアルベルト・ライツマンの二巻の『ベートーヴェン』は、今も私は愛蔵している。ベルリオーズの書簡なども
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