よるものである。したがって当時歴史哲学として問題にされたのは、主として歴史的認識に関する方法論、認識論の形式的論理的問題であって、ヘーゲルが考えたような世界史の哲学としての内容的な歴史哲学ではなかった。ディルタイの仕事の意味なども、まだ一般には十分に認識されてはいなかった。私も新カント派に導かれて歴史哲学の研究に入ったのである。ヴィンデルバントの『プレルーディエン』、リッケルトの『自然科学的概念構成の限界』や『文化科学と自然科学』などから始めて、ジンメルの『歴史哲学の諸問題』等、またトレルチのやがて『歴史主義とその諸問題』に収められた論文を雑誌で探して、勉強した。特にトレルチのものが身になったように思う。その時分メーリスの『歴史哲学教科書』が評判になって、読みたいと思い、学校の研究室へ借りに行ったが、いつも誰かがすでに借り出していて見ることができず、だいぶんたってから、外国に注文しておいたのがやっと手に入って、読んでみるとそのつまらないのにがっかりしたことがある。評判の本が必ずしもよいとは限らない一つの例である。評判になるというにはいろいろ理由があるので、内容の質にばかりよらないのである。ディルタイの『精神科学概論』も読んでみたいと思いながら、絶版になっていて、なかなか見ることのできなかった本であった。後にドイツに留学した時、ベルリンで初めて本屋をのぞいたとき、この本の新版が出ているのを見つけて無性に嬉しくなり、ホテルの一室で読みふけったことを今思い出すのである。歴史家の書物では、その時分、ランプレヒト、ブルクハルト、ランケなどの諸著を繙いた。
日本における新カント主義は、日本の社会の現実の事情に相応して、特殊な性質のものであった。純粋な新カント派といい得るのは、経済学者で哲学者そして銀行家であった左右田喜一郎先生くらいであろう。そのほかなお桑木厳翼、朝永三十郎の両先生を純粋な新カント主義者に加え得るであろうか。一般には、新カント派を通じてカントに還ることによって同時にカント以後のいわゆるドイツ浪漫主義の哲学に結びつくという傾向が濃厚であった。言い換えると、新カント派の認識論的立場に止まらないで形而上学に行くという傾向が非常に根強く存在していたのである。これは、社会的に見ると、日本においては資本主義とか自由主義とかが純粋に発達しなかったといわれる事情に相応すると考
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