て、私もその愛読者の一人となったが、それが後に岩波の『思想』に変ったのである。
高等学校の最初の二年間は私にとっては内省的な彷徨時代であった。二年生になる時学校の規則で文学を志望するか哲学を志望するかを決定しなければならなかったので、私は哲学と書いて出しはしたが、自分の心ではまだいずれとも決定しかねていた。私の気持がまとまって、はっきり哲学をやることに決めたのは三年生の時で、その頃から私の読書の傾向も変ってきた。
七
考えてみると、私の高等学校時代はこの前の世界戦争の時であった。「考えてみると」と私はいう、この場合この表現が正確なのである。というのはつまり、私は感受性の最も鋭い青年期にあのような大事件に会いながら、考えてみないとすぐには思い出せないほど戦争から直接に精神的影響を受けることが少なくてすんだのである。単に私のみでなく多くの青年にとってそうではなかったのかと思う。そう考えると、日露戦争の時、戦争を知らないで研究室の生活を続けていた大学者があるという嘘のようなことも、十分あり得ることであったろうと思われる。私があの世界戦争を直接に経験したのはむしろその後一九二二年ヨーロッパへ行った時である。これは現在の戦争とは全く様子が違っていることである。近代戦争というものはリアリスティックになっている。近代戦争のこの性質はあらゆる人をその中に引き入れて何人も圏外に立つことを許さないというところに率直に現われる。その意味においてそれは全くメカニカルな必然性をもっている。これに反して以前は戦争にしても有機的なものであった、あるいはロマンティックであった。もちろん現在も戦争には何らかロマンティシズムが必要であろう。それにもかかわらず近代戦争は本質的にリアリスティックなものである。近代戦争のこの性質について深く考えてみるのは極めて重要なことである。
あの第一次世界戦争という大事件に会いながら、私たちは政治に対しても全く無関心であった。あるいは無関心であることができた。やがて私どもを支配したのはかえってあの「教養」という思想である。そしてそれは政治というものを軽蔑して文化を重んじるという、反政治的ないし非政治的傾向をもっていた、それは文化主義的な考え方のものであった。あの「教養」という思想は文学的・哲学的であった。それは文学や哲学を特別に重んじ、科学とか技術
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