もある。一日禅坊を出て、宮島の知っている堀口大学氏が浄智寺に来ておられるというので訪ねたことがある。堀口氏に会うといつもあの頃のことを思い出すのであるが、まだ口にしないのである。恐らく堀口氏の記憶には残っていないことであろう。

      六

 私の文学熱はこうして冷めていった。中学を卒業する前、将来は文学をやろうと考えて、当時鹿児島県に移っておられた寺田喜治郎先生に手紙で相談し、先生からは勧めの返事をいただいたのであるが、一高の文科に入ってからはそうした考えはむしろ薄らいでいった。私は文学に対しても懐疑的になっていた。弁論部に関心がなかったと同様、文芸部にも興味がなかった。一年生の時にはかえって一時剣道部に席をおいたことがある。こうした私は芹沢慎一氏――光治良氏の令兄――にひっぱられてボート部に入り、組選を漕ぐことになった。墨田川に行ってボートを漕ぐことは、運動は元来不得手であるにもかかわらず、当時懐疑的になっていた私にとって一つの逃避方法であった。一緒に組選を漕いだ仲間で哲学方面へ行った者には、後に東北大学の宗教学の助教授にまでなって惜しいことに病に斃れてしまった寺崎修一がある。独法の我妻栄、三輪寿壮などの諸君もボートの関係で知り合いになった人々である。京都大学に入ってからも、私は文科の選手として琵琶湖や瀬田川でボートを漕いだことがある。
 ともかく私の読書の興味の中心は次第に文学書から宗教書に移っていった。それは時代の精神的気流の変化の影響によることでもある。トルストイの『わが懺悔』が文学青年の間にも大きな影響を見出すというような時代であった。これは私も感激をもって読んだ本である。私はいつのまにか『芸術とは何ぞや』におけるトルストイに共鳴を感じるようになっていた。彼の『人生論』なども感動させられた本である。私の場合かようなことは中学時代に耽読した徳富蘆花の影響によって知らず識らず準備されていたといえるであろう。私も一時はある種のトルストイ主義者であった。去年の夏、満洲を旅行した時、汽車の中へ岩波文庫版の『イワンの馬鹿』、『人は何で生きるか』というような当時愛読したトルストイの小品を持ち込んで久し振りに読み直してみたが、今度はそれほど深い感動を覚えることができなかった。私はそこに何か気取りに似たものを感じた。しかし老齢になってからもなお気取ることができたとこ
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