關係するものでないことを述べてきた。旅において出會ふのはつねに自己自身である。自然の中を行く旅においても、我々は絶えず自己自身に出會ふのである。旅は人生のほかにあるのでなく、むしろ人生そのものの姿である。
 既にいつたやうに、ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してくれるであらう。けれどもそれによつて彼が眞に自由になることができると考へるなら、間違ひである。解放といふのは或る物からの[#「からの」に傍点]自由であり、このやうな自由は消極的な自由に過ぎない。旅に出ると、誰でも出來心になり易いものであり、氣紛れになりがちである。人の出來心を利用しようとする者には、その人を旅に連れ出すのが手近かな方法である。旅は人を多かれ少かれ冒險的にする、しかしこの冒險と雖も出來心であり、氣紛れであるであらう。旅における漂泊の感情がそのやうな出來心の根柢にある。しかしながら氣紛れは眞の自由ではない。氣紛れや出來心に從つてのみ行動する者は、旅において眞に經驗することができぬ。旅は我々の好奇心を活溌にする。けれども好奇心は眞の研究心、眞の知識欲とは違つてゐる。好奇心は氣紛れであり、一つの所に停まつて見ようとはしないで、次から次へ絶えず移つてゆく。一つの所に停まり、一つの物の中に深く入つてゆくことなしに、如何にして眞に物を知ることができるであらうか。好奇心の根柢にあるものも定めなき漂泊の感情である。また旅は人間を感傷的にするものである。しかしながらただ感傷に浸つてゐては、何一つ深く認識しないで、何一つ獨自の感情を持たないでしまはねばならぬであらう。眞の自由は物においての[#「おいての」に傍点]自由である。それは單に動くことでなく、動きながら止まることであり、止まりながら動くことである。動即靜、靜即動といふものである。人間到る處に青山あり、といふ。この言葉はやや感傷的な嫌ひはあるが、その意義に徹した者であつて眞に旅を味ふことができるであらう。眞に旅を味ひ得る人は眞に自由な人である。旅することによつて、賢い者はますます賢くなり、愚かな者はますます愚かになる。日常交際してゐる者が如何なる人間であるかは、一緒に旅してみるとよく分るものである。人はその人それぞれの旅をする。旅において眞に自由な人は人生において眞に自由な人である。人生そのものが實に旅なのである。
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    個性について

 個性の奧深い殿堂に到る道はテーバイの町の門の數のやうに多い。私の一々の生活は私の信仰の生ける告白であり、私の個々の行爲は私の宗教の語らざる傳道である。私のうちに去來するもろもろの心は自己の堂奧に祀られたるものの直接的な認識を私に喚び起させるために生成し、發展し、消滅する。それ故に有限なものを通して無限なものを捕捉し得る者は、私の唯一つの思想感情もしくは行爲を知ることによつてさへ、私がまことの神の信者であるか、それともバールの僧侶であるかを洞察し得るであらう。しかしながら多くの道があるといふことはその意味を掴み得ない者にとつては單に迷路があるといふに過ぎない。
 私は私のうちに無數の心像が果てしなく去來するのを意識する。私といふものは私の腦裡に生ずる表象や感情や意欲の totum discretum であるのか。それは「觀念の束」ででもあるのか。けれども私は一切の活動がただ私に於て[#「私に於て」に傍点]起ることを知つてゐる。私といふものは無數の心像がその上に現はれては消えつつ樣々な悲喜劇を演ずる舞臺であるのか。それはすべてのものがそこへ入つて行くが何ものもそこから出て來ないところの「獅子の住む洞穴」ででもあるのか。しかし私は私の精神過程の生成と消滅、生産と衰亡の一切がただ私に因つて[#「私に因つて」に傍点]起ることを知つてゐる。
 もし私といふものが私のあらゆる運動と變化がその前で演じられる背景であるとすれば、それは實に奇怪で不氣味な Unding であるといはねばならぬ。私はそれに如何なる指示し得べき内容をも與へることができない。なぜなら私がそれについて表象する性質は悉く此背景を俟つて可能なのであつて背景そのものではないから。從つてそれはもはや個性であることをやめねばならない。私はかやうなものをただ何物ででもなくまた、何物からも生じない抽象的實體として考へ[#「考へ」に傍点]得るのみである。かくして私は虚無觀の前にたたずむ。私によつて決して體驗される[#「體驗される」に傍点]ことがないこの惡魔的な Unding は、私が經驗する色あり響あるすべての喜びと悲しみを舐め盡し、食ひ盡してしまふ。しかし私はこの物から再び七彩の交錯する美しい世界へ歸るべき術を知らないのである。
 私もまた「萬の心をもつ人」である。私は私の内部に絶えず鬩ぎ合ひ、啀み合ひ、相反對し、相矛盾する多くの心を見出すのである。しかしながら私はこれら無數の愛し合ひ、助け合ふ、そして實にしばしば憎み合ひ、挑み合ふ心の aggregatum per accidens ではないであらう。或ひはそれらの心像が單に心理學的法則に從つて結合したものでないであらう。私にして「觀念の束」に過ぎないとすれは、心理學者が私を理解しようとして試みる説明は正當である。彼等は私のうちに現はれる精神現象を一定の範疇と法則とに從つて分類し、總括し、また私の記憶が視覺型に屬するか、聽覺型に屬するか、更に私の性格が多血質であるか、膽汁質であるか、等々、を決定する。けれども抽象的な概念と言語はすべてのものから個性を奪つて一樣に黒塊を作り、ピーターとポールとを同じにする惡しきデモクラシーを行ふものである。私は普遍的な類型や法則の標本もしくは傳達器として存在するのであるか。しからば私もまたいはねばならない、「私は法則のためにではなく例外のために作られたやうな人間の一人である」と。七つの天を量り得るとも、誰がいつたい人間の魂の軌道を計ることができよう。私は私の個性が一層多く記述され定義されることができればできるほど、その價値が減じてゆくやうに感じるのである。
 ひとは私に個性が無限な存在であることを教へ、私もまたさう信じてゐる。地球の中心といふもののやうに單に一あつて二ないものが個性ではない。一號、二號といふやうに區別される客觀的な個別性或ひは他との比較の上での獨自性をもつてゐるものが個性であるのではない。個性とは却つて無限な存在である。私が無限な存在であるといふのは、私の心裡に無數の表象、感情、意欲が果しなく交替するといふ意味であらうか。しかしもし私にしてそれらの精神過程の單に偶然的なもしくは外面的な結合に過ぎないならば、私はただ現象として存在し得るばかりである。私にして現象である以上の意味をもつことができないならば永劫の時の流の一つの點に浮び出る泡沫にも比すべき私の生において如何に多くのものがそのうちに宿されようとも、いづれは須臾にして消えゆく私の運命ではないか。もろもろの太陽をも容赦しない時の經過は、私の腦裡に生起する心像の無限をひとたまりもなく片附けてしまふであらう。それ故に私にして眞に無限な存在であるべきならば、私のうちに時の生じ得ず、また時の滅し得ざる或る物が存在するのでなければならない。
 けれども私は時間を離れて個別化の原理を考へ得るであらうか。個性といふのは一囘的なもの、繰返さないもののことではないであらうか。しかし私は單に時間的順序によつてのみ區別されるメトロノームの相繼いで鳴る一つ一つの音を個性と考へることを躊躇する。
 時間は個性の唯一性の外面的な徴表に過ぎないのであつて、本質的には個性は個性自身の働きそのものにおいて區別されるのでなければならぬ。個性の唯一性はそれが獨立な存在として「他の何物の出入すべき窓を有せず」、自足的な内面的發展を遂げるところに成立するのであつて、個性は自己活動的なものである故に自己區別的なものとして自己の唯一性を主張し得るのである。もとより私が世界過程の如何なる時に生を享けるかといふことは、恰も音樂の一つの曲の如何なる瞬間に或る音が來るかといふことが偶然でないやうに、偶然ではないであらう。それは私といふ個性の内面的な意味の關係に依つて決定されることである。しかし私は時間の形式によつて音樂を理解するのでなく、むしろ音樂において眞の時間そのもの[#「時間そのもの」に傍点]を體驗するのである。「自然を理解しようとする者は自然の如く默してこれを理解しなければならぬ」といはれたやうに、個性を理解しようと欲する者は時の流のざわめきを超越しなければならない。彼は能辯を捕へてその頸を捻ぢなければならない。けれども私が時の流を離脱するのは時の經過の考へ盡すことができぬ遙かの後においてではなく、私が流れる時の中に自己を浸して眞に時そのものになつたときである。單なる認識の形式としての時間から解放されて、純粹持續に自由に身を委せたときである。眺めるところに個性の理解の道はない。私はただ働くことによつて私の何であるかを理解し得るのである。
 一樣に推移し流下する黒い幕のやうな時の束縛と羈絆から遁れ出るとき、私は無限を獲得するのでないか。なぜなら自己活動的なものは無限なものでなければならないから。單に無數の部分から合成されたものが無限であるのではなく、無限なものにおいては部分は全體が限定されて生ずるものとしてつねに全體を表現してゐる。そして私がすべての魂を投げ出して働くとき、私の個々の行爲には私の個性の全體が現實的なものとしてつねに表現されてゐるのである。無限なものは一つの目的、または企圖に統一されたものであつて、その發展の一つの段階は必然的に次の段階へ移りゆくべき契機をそのうちに含んでゐる。理智の技巧を離れて純粹な學問的思索に耽るとき、感情の放蕩を去つて純粹な藝術的制作に從ふとき、欲望の打算を退けて純粹な道徳的行爲を行ふとき、私はかやうな無限を體驗する。思惟されることができずただ體驗されることができる無限は、つねに價値に充ちたもの即ち永遠なものである。それは意識されるにせよ意識されぬにせよ、規範意識によつて一つの過程から次の過程へ必然的に導かれる限りなき創造的活動である。かやうな必然性はもとより因果律の必然性ではなく、超時間的で個性的な内面的必然性である。
 しかしながら私は私が無限を體驗すること即ち眞に純粹になることが極めて稀であることを告白しなければならない。私は多くの場合「ひとはそれを理性と名附けてただあらゆる動物よりも一層動物的になるために用ゐてゐる」とメフィストが嘲つたやうな理性の使用者である。私の感情はたいていの時生産的創造的であることをやめて、怠惰になり横着になつて、媚びと芝居氣に充ちた道樂をしようとする。私の意志は實にしばしば利己的な打算が紡ぐ網の中に捲き込まれてしまふのである。
 かやうにして私は、個性が搖籃と共に私に贈られた贈物ではなく、私が戰ひをもつて獲得しなければならない理念であることを知つた。しかし私はこの量り難い寶が自己の外に尋ねらるべきものではなくて、たゞ自己の根源に還つて求めらるべきものであることも知つた。求めるといふことはあるがままの自己に執しつつ他の何物かをそれに附け加へることではない。ひとは自己を滅することによつて却つて自己を獲得する。それ故に私は偉大な宗教家が「われもはや生けるにあらず、キリストわれにおいて生けるなり」といつたとき、彼がキリストになつたのでなく、彼が眞に彼自身になつたのであることを理解する。私の個性は更生によつてのみ私のうちに生れることができるのである。
 哲學者は個性が無限な存在であることを次のやうに説明した。個性は宇宙の生ける鏡であつて、一にして一切なる存在である。恰も相集まる直線が作る無限の角が會する單一な中心の如きものである。すべての個別的實體は神が全宇宙についてなした決意を表はしてゐるのであつて、一個の個性は全世界の意味を唯一の仕方で現實化し表現するミクロコスモスである。個性は自己自身のうちに他との無限の關
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