なつて以來、いかに多くの僞善者が生じたであらうか。或ひはむしろ道徳の社會性といふが如き理論は現代に特徴的な僞善をかばふためにことさら述べられてゐるやうにさへ見えるのである。
我々の誰が僞善的でないであらうか。虚榮は人間の存在の一般的性質である。僞善者が恐しいのは、彼が僞善的であるためであるといふよりも、彼が意識的な人間であるためである。しかし彼が意識してゐるのは自己でなく、虚無でもなく、ただ他の人間、社會といふものである。
虚無に根差す人生はフィクショナルなものである。人間の道徳もまたフィクショナルなものである。それだから僞善も存在し得るのであり、若干の效用をさへもち得るのである。しかるにフィクショナルなものは、それに止まることなく、その實在性が證明されねばならぬ。僞善者とさうでない人間との區別は、その證明の誠意と熱情をもつてゐるかどうかにある。人生において證明するといふことは形成することであり、形成するといふことは内部と外部とが一つになることである。ところが僞善者にあつては内部と外部とが別である。僞善者には創造といふものがない。
虚言の存在することが可能であるのは、あらゆる表現が眞理として受取られる性質をそれ自身においてもつてゐるためである。ものは表現されると我々に無關係になる。表現といふものはそのやうに恐しいものである。戀をする人間は言葉といふもの、表現といふものが如何に恐しいものであるかを考へてをののいてゐる。今日どれだけの著作家が表現の恐しさをほんとに理解してゐるか。
絶えず他の人を相手に意識してゐる僞善者が阿諛的でないことは稀である。僞善が他の人を破滅させるのは、僞善そのものによつてよりも、そのうちに含まれる阿諛によつてである。僞善者とさうでない者との區別は、阿諛的であるかどうかにあるといふことができるであらう。ひとに阿ることは間違つたことを言ふよりも遙かに惡い。後者は他人を腐敗させはしないが、前者は他人を腐敗させ、その心をかどはかして眞理の認識に對して無能力にするのである。嘘吐くことでさへもが阿ることよりも道徳的にまさつてゐる。虚言の害でさへもが主としてそのうちに混入する阿諛に依るのである。眞理は單純で率直である。しかるにその裏は千の相貌を具へてゐる。僞善が阿るためにとる姿もまた無限である。
多少とも權力を有する地位にある者に最も必要な徳は、阿る者と純眞な人間とをひとめで識別する力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもつてゐるなら、彼はあらゆる他の徳をもつてゐると認めても宜いであらう。
「善く隱れる者は善く生きる」といふ言葉には、生活における深い智慧が含まれてゐる。隱れるといふのは僞善でも僞惡でもない、却つて自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隱れるといふことであるほど、世の中は虚榮的であるといふことをしつかりと見抜いて生きることである。
現代の道徳的頽廢に特徴的なことは、僞善がその頽廢の普遍的な形式であるといふことである。これは頽廢の新しい形式である。頽廢といふのは普通に形がくづれて行くことであるが、この場合表面の形はまことによく整つてゐる。そしてその形は決して舊いものではなく全く新しいものでさへある。しかもその形の奧には何等の生命もない、形があつても心はその形に支へられてゐるのでなく、虚無である。これが現代の虚無主義の性格である。
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娯樂について
生活を樂しむことを知らねばならぬ。「生活術」といふのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にゐてしかも物に對して自律的であるといふことがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同樣である。どこまでも生活の中にゐてしかも生活を超えることによつて生活を樂しむといふことは可能になる。
娯樂といふ觀念は恐らく近代的な觀念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具へてゐる。娯樂といふものは生活を樂しむことを知らなくなつた人間がその代りに考へ出したものである。それは幸福に對する近代的な代用品である。幸福についてほんとに考へることを知らない近代人は娯樂について考へる。
娯樂といふものは、簡單に定義すると、他の仕方における生活である。この他とは何であるかが問題である。この他とは元來宗教的なものを意味してゐた。從つて人間にとつて娯樂は祭としてのみ可能であつた。
かやうな觀念が失はれたとき、娯樂はただ單に、働いてゐる時間に對する遊んでゐる時間、眞面目な活動に對する享樂的な活動、つまり「生活」とは別の或るものと考へられるやうになつた。樂しみは生活そのもののうちになく、生活の他のもの即ち娯樂のうちにあると考へられる。一つの生活にほかならぬ娯樂が生活と對立させられる。生活の分裂から娯樂の觀念が生じた。娯樂を求める現代人は多かれ少かれ二重生活者としてそれを求めてゐる。近代的生活はそのやうに非人間的になつた。生活を苦痛としてのみ感じる人間は生活の他のものとして娯樂を求めるが、その娯樂といふものは同じやうに非人間的であるのほかない。
娯樂は生活の附加物であるかのやうに考へられるところから、それはまた斷念されても宜いもの、むしろ斷念さるべきものとも考へられるのである。
祭は他の秩序のもの、より高い秩序のものと結び附いてゐる。しかるに生活と娯樂とは同じ秩序のものであるのに對立させられてゐる。むしろ現代における秩序の思想の喪失がそれらの對立的に見られる根源である。
他の、より高い秩序から見ると、人生のあらゆる營みは、眞面目な仕事も道樂も、すべて慰戲(divertissement)に過ぎないであらう。パスカルはそのやうに考へた。一度この思想にまで戻つて考へることが、生活と娯樂といふ對立を拂拭するために必要である。娯樂の觀念の根柢にも形而上學がなければならぬ。
たとへば、自分の專門は娯樂でなく、娯樂といふのは自分の專門以外のものである。畫は畫家にとつては娯樂でなく、會社員にとつては娯樂である。音樂は音樂家にとつては娯樂でなく、タイピストにとつては娯樂である。かやうにしてあらゆる文化について、娯樂的な對し方といふものが出來た。そこに現代の文化の墮落の一つの原因があるといへるであらう。
現代の教養の缺陷は、教養といふものが娯樂の形式において求められることに基いてゐる。專門は「生活」であつて、教養は專門とは別のものであり、このものは結局娯樂であると思はれてゐるのである。
專門といふ見地から生活と娯樂が區別されるに從つて、娯樂を專門とする者が生じた。彼にとつてはもちろん娯樂は生活であつて娯樂であることができぬ。そこに純粹な娯樂そのものが作られ、娯樂はいよいよ生活から離れてしまつた。
娯樂を專門とする者が生じ、純粹な娯樂そのものが作られるに從つて、一般の人々にとつて娯樂は自分がそれを作るのに參加するものでなく、ただ外から見て享樂するものとなつた。彼等が參加してゐるといふのはただ、彼等が他の觀衆とか聽衆の中に加はつてゐるといふ意味である。祭が娯樂の唯一の形式であつた時代に比較して考へると、大衆が、もしくは純粹な娯樂そのものが、もしくは享樂が、神の地位を占めるやうになつたのである。今日娯樂の大衆性といふものは概してかくの如きものである。
生活と娯樂とは區別されながら一つのものである。それらを抽象的に對立させるところから、娯樂についての、また生活についての、種々の間違つた觀念が生じてゐる。
娯樂が生活になり生活が娯樂にならなければならない。生活と娯樂とが人格的統一に齎されることが必要である。生活を樂しむといふこと、從つて幸福といふものがその際根本の觀念でなければならぬ。
娯樂が藝術になり、生活が藝術にならなければならない。生活の技術は生活の藝術でなければならぬ。
娯樂は生活の中にあつて生活のスタイルを作るものである。娯樂は單に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。單に見ることによつて樂しむのでなく、作ることによつて樂しむことが大切である。
娯樂は他の仕方における生活として我々の平生使はれてゐない器官や能力を働かせることによつて教養となることができる。この場合もちろん娯樂はただ他の仕方における生活であつて、生活の他のものであるのではない。
生活の他のものとしての娯樂といふ抽象的な觀念が生じたのは近代技術が人間生活に及ぼした影響に依るものとすれば、この機械技術を支配する技術が必要である。技術を支配する技術といふものが現代文化の根本問題である。
今日娯樂といはれるものの持つてゐる唯一の意義は生理的なものである。「健全な娯樂」といふ合言葉がそれを示してゐる。だから私は今日娯樂といはれるもののうち體操とスポーツだけは信用することができる。娯樂は衞生である。ただ、それは身體の衞生であるのみでなく、精神の衞生でもなければならぬ。そして身體の衞生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衞生は觀念の運行を善くすることにある。凝結した觀念が今日かくも多いといふことは、娯樂の意義とその方法がほんとに理解されてゐない證據である。
生活を樂しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の尖端にはつねにイマジネーションがなければならない。あらゆる小さな事柄に至るまで、工夫と發明が必要である。しかも忘れてならないのは、發明は單に手段の發明に止まらないで、目的の發明でもなければならぬといふことである。第一級の發明は、いはゆる技術においても、新しい技術的手段の發明であると共に新しい技術的目的の發明であつた。眞に生活を樂しむには、生活において發明的であること、とりわけ新しい生活意欲を發明することが大切である。
エピキュリアンといふのは生活の藝術におけるディレッタントである。眞に生活を樂しむ者はディレッタントとは區別される創造的な藝術家である。
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希望について
人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このやうな人生を我々は運命と稱してゐる。もし一切が必然であるなら運命といふものは考へられないであらう。だがもし一切が偶然であるなら運命といふものはまた考へられないであらう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもつてゐる故に、人生は運命なのである。
希望は運命の如きものである。それはいはば運命といふものの符號を逆にしたものである。もし一切が必然であるなら希望といふものはあり得ないであらう。しかし一切が偶然であるなら希望といふものはまたあり得ないであらう。
人生は運命であるやうに、人生は希望である。運命的な存在である人間にとつて生きてゐることは希望を持つてゐることである。
自分の希望はFといふ女と結婚することである。自分の希望はVといふ町に住むことである。自分の希望はPといふ地位を得ることである。等々。ひとはこのやうに語つてゐる。しかし何故にそれが希望であるのか。それは欲望といふものでないのか。目的といふものでないのか。或ひは期待といふものでないのか。希望は欲望とも、目的とも、期待とも同じではないであらう。自分が彼女に會つたのは運命であつた。自分がこの土地に來たのは運命であつた。自分が今の地位にゐるのは運命であつた。個々の出來事が私にとつて運命であるのは、私の存在が全體として本來運命であるためである。希望についても同じやうに考へることができるであらう。個々の内容のものが希望と考へられるのは、人生が全體として本來希望であるためである。
それは運命だから絶望的だといはれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。
希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味ひたくない者は初めから希望を持たないのが宜い、といはれる。しかしながら、失はれる
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