が懷疑の仕事であるであらうに。反對に他の場合には如何なる懷疑も懷疑であるといふ理由で容赦なく不道徳として貶せられてゐる。懷疑は知性の一つの徳であり得るであらうに。前の場合、懷疑そのものが一つの獨斷となる。後の場合、懷疑を頭から敲きつけようとするのもやはり獨斷である。
 いづれにしても確かなことは、懷疑が特に人間的なものであるといふことである。神には懷疑はないであらう、また動物にも懷疑はないであらう。懷疑は天使でもなく獸でもない人間に固有なものである。人間は知性によつて動物にまさるといはれるならば、それは懷疑によつて特色附けられることができるであらう。實際、多少とも懷疑的でないやうな知性人があるであらうか。そして獨斷家は或る場合には天使の如く見え、或る場合には獸の如く見えないであらうか。

 人間的な知性の自由はさしあたり懷疑のうちにある。自由人といはれる者で懷疑的でなかつたやうな人を私は知らない。あの 〔honne^te homme〕(眞人間)といはれた者にはみな懷疑的なところがあつたし、そしてそれは自由人を意味したのである。しかるに哲學者が自由の概念をどのやうに規定するにしても、現實
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