。或ひは倫理の問題が幸福の問題から分離されると共に、あらゆる任意のものを倫理の概念として流用することが可能になつたのである。幸福の要求が今日の良心として復權されねばならぬ。ひとがヒューマニストであるかどうかは、主としてこの點に懸つてゐる。
幸福の問題が倫理の問題から抹殺されるに從つて多くの倫理的空語を生じた。例へば、倫理的といふことと主體的といふこととが一緒に語られるのは正しい。けれども主體的といふことも今日では幸福の要求から抽象されることによつて一つの倫理的空語となつてゐる。そこでまた現代の倫理學から抹殺されようとしてゐるのは動機論であり、主體的といふ語の流行と共に倫理學は却つて客觀論に陷るに至つた。幸福の要求がすべての行爲の動機であるといふことは、以前の倫理學の共通の出發點であつた。現代の哲學はかやうな考へ方を心理主義と名附けて排斥することを學んだのであるが、そのとき他方において現代人の心理の無秩序が始まつたのである。この無秩序は、自分の行爲の動機が幸福の要求であるのかどうかが分らなくなつたときに始まつた。そしてそれと同時に心理のリアリティが疑はしくなり、人間解釋についてあらゆる
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