くいふと、甲でもなく乙でもないと同時に甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニムな「ひと」であるのに反して、名譽心においては相手は甲であり或ひは乙であり、それぞれの人間が個人としての獨自性を失はないでゐるところの社會である。虚榮心は本質的にアノニムである。
 虚榮心の虜になるとき、人間は自己を失ひ、個人の獨自性の意識を失ふのがつねである。そのとき彼はアノニムな「ひと」を對象とすることによつて彼自身アノニムな「ひと」となり、虚無に歸する。しかるに名譽心においては、それが虚榮心に變ずることなく眞に名譽心にとどまつてゐる限り、人間は自己と自己の獨自性の自覺に立つのでなければならぬ。
 ひとは何よりも多く虚榮心から模倣し、流行に身を委せる。流行はアノニムなものである。それだから名譽心をもつてゐる人間が最も嫌ふのは流行の模倣である。名譽心といふのはすべてアノニムなものに對する戰ひである。

 發生的にいふと、四足で地に這ふことをやめたとき人間には名譽心が生じた。彼が直立して歩行するやうになつたといふことは、彼の名譽心の最初の、最大の行爲であつた。
 直立することによつて人間は抽象的な存在になつた。そのとき彼には手といふもの、このあらゆる器官のうち最も抽象的な器官が出來た、それは同時に彼にとつて抽象的な思考が可能になつたことである、等々、――そして名譽心といふのはすべて抽象的なものに對する情熱である。
 抽象的なものに對する情熱をもつてゐるかどうかが名譽心にとつて基準である。かくして世の中において名譽心から出たもののやうにいはれてゐることも實は虚榮心にもとづくものが如何に多いであらう。

 抽象的な存在になつた人間はもはや環境と直接に融合して生きることができず、むしろ環境に對立し、これと戰ふことによつて生きねばならぬ。――名譽心といふのはあらゆる意味における戰士のこころである。騎士道とか武士道とかにおいて名譽心が根本的な徳と考へられたのもこれに關聯してゐる。

 たとへば、名を惜しむといふ。名といふのは抽象的なものである。もしそれが抽象的なものでないなら、そこに名譽心はなく、虚榮心があるだけである。いま世間の評判といふものはアノニムなものである。從つて評判を氣にすることは名譽心でなくて虚榮心に屬してゐる。アノニムなものと抽象的なものとは同じではない。兩者を區別することが大切である。
 すべての名譽心は何等かの仕方で永遠を考へてゐる。この永遠といふものは抽象的なものである。たとへば名を惜しむといふ場合、名は個人の品位の意識であり、しかもそれは抽象的なものとしての永遠に關係附けられてゐる。虚榮心はしかるに時間的なものの最も時間的なものである。
 抽象的なものに對する情熱によつて個人といふ最も現實的なものの意識が成立する、――これが人間の存在の祕密である。たとへば人類といふのは抽象的なものである。ところでこの人類といふ抽象的なものに對する情熱なしには人間は眞の個人となることができぬ。

 名譽心の抽象性のうちにその眞理と同時にその虚僞がある。

 名譽心において滅ぶ者は抽象的なものにおいて滅ぶ者であり、そしてこの抽象的なものにおいて滅び得るといふことは人間に固有なことであり、そのことが彼の名譽心に屬してゐる。
 名譽心は自己意識と不可分のものであるが、自己といつてもこの場合抽象的なものである。從つて名譽心は自己にとどまることなく、絶えず外に向つて、社會に對して出てゆく。そこに名譽心の矛盾がある。

 名譽心は白日のうちになければならない。だが白日とは何か。抽象的な空氣である。
 名譽心はアノニムな社會を相手にしてゐるのではない。しかしながらそれはなほ抽象的な甲、抽象的な乙、つまり抽象的な社會を相手にしてゐるのである。

 愛は具體的なものに對してのほか動かない。この點において愛は名譽心と對蹠的である。愛は謙虚であることを求め、そして名譽心は最もしばしば傲慢である。

 宗教の祕密は永遠とか人類とかいふ抽象的なものがそこでは最も具體的なものであるといふことにある。宗教こそ名譽心の限界を明瞭にするものである。

 名譽心は抽象的なものであるにしても、昔の社會は今の社會ほど抽象的なものでなかつた故に、名譽心はなほ根柢のあるものであつた。しかるに今日社會が抽象的なものになるに從つて名譽心もまたますます抽象的なものになつてゐる。ゲマインシャフト的な具體的な社會においては抽象的な情熱であるところの名譽心は一つの大きな徳であることができた。ゲゼルシャフト的な抽象的な社會においてはこのやうな名譽心は根柢のないものにされ、虚榮心と名譽心との區別も見分け難いものになつてゐる。
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    怒について

 Ira Dei(神の怒)、――キリスト教の
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